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情報所有館 : カクキュー八丁味噌(八丁味噌の郷) 

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本社屋

大正末期から昭和2年にかけて建てられたカクキューの本社屋。平成8年には愛知県では初となる国の登録有形文化財に登録された。教会のような洋風な形だが、色は黒と白を基調としており、周りの味噌蔵の色と調和するデザインとなっている。※外観のみ見学可


味噌蔵

八丁味噌を天然醸造で熟成させる味噌蔵。工場見学では、大正13年に建てられた味噌蔵「甲子蔵(きのえねぐら)」の内部を見学することができる。八丁味噌は、岡崎市八丁町の気候風土の中で、二夏二冬(2年以上)天然醸造でゆっくりと熟成させる。木桶の上の円錐状の重石は天然の川石で、今でも10年以上修行をした熟練の職人の手で、味噌6トンに対して3トン(約350個)の石を積んでいる。


大蔵(現・史料館)

明治40年に味噌蔵として建てられた当社最大の蔵。近くを流れる矢作川がかつては頻繁に氾濫して川の水が押し寄せてきたため、石垣が高く積んである。平成3年からは内部を改装して史料館として開館している。 史料館では等身大の人形を使って昔ながらの味噌造りの工程を再現しており、宮内省御用達関連の史料やレトロな味噌のパッケージなどを展示している。大蔵も本社屋と同様に平成8年に愛知県では初となる国の登録有形文化財に登録された。


玄佺館

玄佺館(げんせんかん)は、19代 早川久右衛門の母方の実家である森家の蔵を移築し、2018年10月に開館。ここでは、カクキューの歴史や味噌の豆知識、全国味噌マップなどを常設展示している。森家は、元亀年間から約400年にわたり三重県四日市市で漢方医をしており、代々「森玄佺(もりげんせん)」という名を襲名している。この建物には、主に生薬などが保管されていた。「玄佺館」の名は「森玄佺」にちなんで名づけられた。


天保10年製の木桶

史料館には、当社最古の天保10年(1839年)製の六尺桶が展示されている。八丁味噌は今も昔も、全て六尺桶(高さと底の直径が約1.8m)という大きな木桶に仕込んで熟成させる。なお、現役で使用している最古の六尺桶は天保15年(1844年)製。


南極の石

日本学術振興会南極地域学術観測隊の携行食品として当社の八丁味噌は昭和31年(1956年)9月、耐暑耐寒試験を受けた結果優良と認められ、同年11月の予備観測から昭和37年(1962年)4月まで毎回使用された。史料館には第八次南極観測越冬隊で豊田市出身の六峰咲年氏から贈られた感謝状および南極の石が展示してある。南極の石はブリザード(北極、南極地方で吹雪を交えて吹く寒い風)でえぐられた痕が確認できる。


給水塔

史料館入口手前にあるのは、かつて貯水タンクとして使用されていた「給水塔(きゅうすいとう)」である。大正時代に造られ、史料館から西へ数十メートル離れた大井戸(大正13年(1924年)完成)からポンプで水をくみ上げていた。大井戸からはかつて矢作川の良質な伏流水が得られていたが、昭和時代に井戸の水が枯れてしまったため現在は給水塔も大井戸も使用していない。大井戸の設計は、首都高速道路公団委員として「東京オリンピック(昭和39年(1964年))」道路の建設に尽力されたことでも有名な、鷹部屋福平(たかべやふくへい)氏が行った。


私領傍示石「従是東岡崎領」

私領傍示石(しりょうぼうじせき)とは、村と村の境界を示す標識のこと。「従是東岡崎領(これよりひがしおかざきりょう)」は「ここから東は岡崎の領地です」という意味で、かつての岡崎領の西の入り口に建立されていた(現在の安城市宇頭茶屋町と、安城市浜屋町との境界付近)。明治期になり各地の傍示石は隅に追いやられたり、移転したりして最後には廃棄されることが多かった中、「従是東岡崎領」はどういった経緯か不明だが、当社敷地内に移設され残ったため歴史的に貴重なものである。石の根本には、「元文元年(1736年)丙辰 石工小林當良」と刻まれている。


早川氏庭榎の碑

この碑は、榎(えのき)の古樹の頌徳碑(しょうとくひ)で、植物の霊異を讃える大変珍しい碑。また、早川家の由緒をうかがえる重要な石碑でもある。元々現在の岡崎市舳越町の願照寺(創業家である早川家の檀那寺)北方の早川家所有地に建っていたが、戦後の農地改革で早川家がその土地を手放した為、昭和期に当社敷地内へ移設された。石碑には、早川家の祖先が元は今川義元に仕える家臣で、桶狭間の戦いで今川が敗れた際に、岡崎に逃げ延びたことなどが刻まれている。


正直台

木桶の側面の板を「側板(がわいた)」、底にはまった板を「底板(そこいた)」と呼ぶが、側板同士、底板同士の接触面を「正直(しょうじき)」と呼び、「正直」を削るのが「正直台」という当社史料館にも展示している長い鉋(かんな)である。木桶は円形であり、また下へ向かってすぼまっている形であるため、「正直」を削る時に微妙な角度をつける必要があり、職人の豊富な経験および高度な技術が必要である(「正直」がぴったり合わさらなければすぐに漏れる木桶となってしまう)。そのため、『職人の技量がそこに正直に現れる』という意味で、削る面が「正直」と呼ばれるようになったのでは、と言われている。


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