Systematic Survey on Copier Technology in Japan
平倉 浩治 Koji Hirakura
■要旨
複写というのは、器具や装置を用いて文書、書画、写真などの複製を作ることである。
複写技術の主流である電子写真は先の大戦の直前に米国でC.F.カールソンにより発明され、戦後にゼロックス社で商品化された。電子写真の画像形成工程は物理量の変換で行われる。光化学反応を用いる青写真、銀塩写真、ジアゾ複写と違って、電子写真は物理変換プロセスを用いるのが特徴である。電子写真の基本的画像形成プロセスは非常に小さな物理量に基づいてこれが進行する。そのため、温湿度などの外乱に非常な敏感な宿命を持っていることにまず理解を深める必要があった。
わが国の複写技術の研究開発は企業主体で行われたので、それぞれの企業の置かれた立場によって違う技術が開発された。ゼロックス社の初期の頃の特許は1985 年頃には権利失効して自由技術となり、特許を気にしないで使えるものになりつつあった。しかし単なる模倣では、ゼロックスの後塵を拝することになるという経営者、技術者、研究者も少なくなかった。それぞれの企業、大学研究室の中には新技術を生み出すための熱心な研究開発活動が展開されていた。
本報告の対象期間は1940 年から2020 年までの80 年にわたるが、以下の理由で1970 年から1995 年までの25 年間の事柄を詳しく調査して執筆している。日本では1970 年からの25 年間は極めて多彩な技術開発が複写機の付加価値を高めるために行われた。主要な企業はカメラ製造業でもあり、文書複写の文字再現は言うまでもなく写真画質の再現にも力を注いだ。また小型化、軽量化、低コスト化の設計が上手く魅力的な外観の商品に仕上げることができた。1970 年頃の日本製複写機は性能の割に大型で高価であった。その後、高速化、高機能化すると共に小型、軽量、低価格化する道のりを歩んできた。20 年後の1990 年には重量で1 /8、価格で1 /4となった。
電子写真は本来、高ガンマ1)のプロセスである。文章、線画の複写には理想的であるが、写真の再現には適していない。画像を光学的なものからデジタル形式に変換してしまうと濃度要素をデジタル的に調節してガンマを最適化できる。1980 年代まで、ゼロックスは複写機のデジタル化には殆ど興味がなかったようだ。しかし日本の複写機メーカーはデジタル化によるその再発明の道を選択した。デジタル技術による多機能性とカラー化で複写機の魅力を高める戦略を展開し、複写機を複合機(MFP)と呼び変えた。
デジタル・インフラの進展とともに複合機によるコピーモードでの利用は減少して行き、プリントモードで使われるようになった。さらにデジタル化がすすむと紙文書への依存が減り、電子文書での情報交換が主流になりはじめた。大手複写機メーカーは次の期待される成長分野として、既存の印刷産業に着眼していた。電子写真、そしてインクジェット技術を用いて印刷をデジタル化することで印刷産業のイノベーションを起こすことを企てた。
この報告書は電子写真を用いる複写機事業を本業とする大手企業の製品と技術を調査し、著者の価値観に基づき系統的に記した。日本画像学会の既刊号、関連企業から出版されたテクニカル・レポート既刊号、社史、登録特許などは公式な情報とし適宜引用した。本報告で言及していない技術、製品も多数あると思われるが、これも調査時間、紙面制約、それにCOVID-19パンデミックによる情報ルートの制限に依るものとご理解頂きたい。
1)階調画像の入力と出力の応答特性を示す特性曲線の直線部の傾き値
■Abstract
Copying is the use of instruments and devices to make copies of documents, calligraphic works, photographs,etc.
Electrophotography, which is the mainstream of copy technologies, was invented by C.F. Carlson in theUnited States just before World War II and commercialized by Xerox after the War. The electrophotographicimaging processes are performed through the conversion of physical quantities. Unlike blueprints, silverhalide photographs, and diazo copying, which use photochemical reactions, electrophotography ischaracterized by the use of the physical conversion processes. The basic imaging process ofelectrophotographyis carried out based on extremely small physical quantities. Therefore, it was first necessary to understandthat this technology was destined to be very sensitive to disturbances such as temperature and humidity.
Since the research and development of copy technologies in Japan was carried out mainly by companies,different technologies were developed depending on the position of each company. Xerox's earlypatents expired around 1985, thereby freeing up the technology to be used without worry of patentinfringement. However, few managers, engineers and researchers believed that mere imitation would be enoughto overtake Xerox’s lead. Enthusiastic research and development to create new technology developed incompanies and university laboratories.
This report covers the 80-year period from 1940 to 2020, but the author has investigated and wrote aboutthe 25-year period from 1970 to 1995 in detail for the following reasons. In Japan, during the 25-yearperiodfrom 1970, a wide variety of technological development took place to increase the added value of copiers.The major companies were also camera manufacturers, and they focused not only on reproducing thecharacters in the document copy, but also on reproducing the image quality of the photographs. In addition,they were able to yield an attractive finished product by successfully designing it to be smaller, lighterand more economical. Japanese copiers around 1970 were large and expensive for their performance.They subsequently became smaller, lighter, and more economical while also becoming faster and moresophisticated. Twenty years later, in 1990, they were one-eighth of the weight and a quarter of the cost.
Electrophotography is essentially a high gamma1) process. It is ideal for copying texts and lineimages,but not suitable for reproducing photographs. Once the image is converted from optical to digital, thedensity factor can be digitally adjusted to optimize gamma. Until the 1980s, Xerox seemed to have littleinterestin digitizing copiers. However, Japanese copier makers decided to go digital and thus reinvent the copier.
They have developed the strategy to increase the attractiveness of copiers through their multi-functionalityand colorization using digital technology, thereafter renaming the copier ‘MFP’ (multifunction peripheralor multifunction printer).
With the development of digital infrastructure, the use of MFP as a copier has decreased, and they arenow more commonly used as printers. Furthermore, as digitalization progressed there was decreaseddependence on paper documents, and information exchange using electronic documents began to gomainstream. Major copier makers looked at the existing printing industry as the next promising growtharea. They attempted to innovate the printing industry through digital printing using electrophotographicand inkjet technologies.
This report investigates the products and technologies of major companies whose main business is theelectrophotographic copier business, and systematically describes them based on the author's values.The published issues of the Imaging Society of Japan, technical reports published by related companies,corporate history, registered patents, etc., have been taken as official information and cited asappropriate.There are likely many technologies and products that have been overlooked in this report; however, theauthor faced restrictions in terms of research time, page space, and information routes due to the COVID-19pandemic
1) The slope value of the linear part of the characteristic curve that shows the response characteristics ofthe input and output of the gradation image
■ Profile
平倉 浩治 Koji Hirakura
国立科学博物館産業技術史資料情報センター主任調査員
1970 年 | 佐賀大学理工学部物理学科卒業 |
同年株式会社リコー入社 | |
複写・画像技術の研究開発に従事 | |
1992 年 | リコー画像技術研究所 所長 |
2007 年 | リコー理事 |
2008 年 | 日本画像学会 会長 |
2011 年 | リコー退社 |
2011 年 | HiRAK 代表 |
■ Contents
複写といえば、書類、印刷物、写真など紙媒体上の文字列や画像を別の用紙に写し取ることを指す。古代から筆写や、芸術視点からの模写が行われたが、やがて活版を用いる印刷の方が安価に大量部数を作製できるので複写は主役の座を降り、長い歳月が過ぎた。複写が再び登場するのは産業革命の時代である。金融、物流が盛んになり、多数の契約書、帳票類を複数の当事者が間違いなく共有する必要があった。
最初の複写機が発明された頃は機械的圧力、光化学反応を用いたが、やがて静電気と光導電体を用いる電子写真が米国で発明される。本技術は発明から80 年以上経った今も、オフィス業務における複写、プリントの主流技術であり、産業用、商業用のデジタル印刷へも応用され発展している。
電子写真複写技術の発明に至る動機は明確であったが、活動は個人の手で行われ、その商品化の提案に米国の大企業は否定的であった。第二次大戦後さほど知られていない中小企業社長がこの発明の目的に共感して事業成功に導いたのが特筆に値する。*)
我が国の複写機事業は光化学反応を利用するジアゾ感光紙を用いて始まった。原稿を感光紙に密着露光し、焼き付けたので不透光の原稿や書籍からの複写は無理であった。大戦後まもなく、日本企業は米国で発明の電子写真技術に相当の刺激を受けて、調査、研究活動を始めた。
日本の普通紙複写機事業は1960 年代からの高度経済成長に同期して発展し、外貨を稼ぐ幾つもの優良企業を育てた。やがて複写機企業の生産拠点は中国、アジア、欧州など海外各地に進出した。しかし韓国、台湾、中国へと製品開発の主体が移転することなく今に至っているのは以下の特徴に依っている。
その特徴のひとつは複写機の製品アーキテクチャー**)がインテグラル型であることに起因する。当業界の人達は比喩的に複写機は箱の中に印刷会社と工場があると言う。構成要素は、物理、機械、化学、光半導体、ポリマー、光学、電気・電子、粉体、流体、そしてデジタル、ソフトウエアである。そのため製品全体の仕組みと構成モジュール機能との関係を深く理解しないと製品開発は不可能である。二つ目は重層的に出願された特許網があり、これらが新規参入企業への高い障壁を形成している。
このごろの複写機、プリンター事業への挑戦者は新規参入者によるものではない。デジタル化できるものが遅かれ早かれデジタルになるというその事が脅威なのである。今日、人々が生み出す情報の大半がデジタル技術を用いて作成、編集、共有、保存、そしてデジタル形式のままで破棄されるまでになった。
このデジタル化の急速な普及期に複写機の技術進化と発展史を振り返り、画期的発明、革新技術、それに至る経緯、当事者などを系統的に調査、記録し後世に伝えることは十分に意義深いことと考える。
文書作成のデジタル化が進んだ1995 年以降、複写機の役割は紙文書の複写から、紙文書スキャン、電子文書のプリント機能へと軸足を移し、複合機と改名して多機能複写機となる。さらにプロダクション印刷機へと進化発展していく。また同時期にインクジェット技術の革新があり電子写真の代替技術ともなっていく。
本編では複写機に用いられる電子写真画像形成プロセスの系統化調査に集中する。相当の歴史と内容を含むインクジェット技術については、プリンター産業技術史のカテゴリーで、あらためて技術系統化調査されるように期待する。
*)ロチェスター, NY.で銀塩印画紙等を製造していたハロイド社のウィルソン(Joseph C. Wilson)社長は、同州アグファの工場を突然解雇された化学屋のデサウアー(John H. Dessauer)を雇う。その責任感と指導力にたいし社長から全面的信頼を得たデサウアーは、カールソン発明の電子写真複写機の実用化を提案しバッテル研究所の協力を得て事業成功に至る。
**)製品システム設計の基本思想を指す用語である。この対極の製品にはモジュラー型の製品アーキテクチャーがあり、パソコン、自転車などはこの製品設計思想である。構成モジュールが自己完結機能を有しているので、互換性があり製品全体を理解しなくてもモジュールの組み合わせで新製品展開も可能である。一方インテグラル型は構成モジュールが自己完結機能を有しておらず、お互いのモジュール同士が複雑な関係をもつので「摺り合わせ型」とも呼ばれる。藤本隆宏"ものづくり経営学"初版, 東京, 光文社, (2007),24pなどで提唱されている。
古代エジプトの時代から、美しい聖刻文字や画像の筆写、模刻は行われてきた。現代でも書道の稽古で行われる臨書は、手本を机の左側に置いてそれを参照しつつ、手本の書の筆意を想像しながら、筆の中に含まれる墨の量に応じて速度を調整し運筆することにより行う。もう一つは手本の上に薄い紙を重ねて透かし写し取るように筆でなぞる方法がある。古来より搨とうも模と言われたが、相応の技量を持つ技術職が搨模により価値ある書の複写を作っている。書の上達に苦しむ初学者も良くこの手法を真似る場合があるが、字形はそれなりに写せても筆意までを写しとるのは殆ど不可能である。
唐の太宗皇帝であった李世民(598-649)は、書聖と言われた王羲之(303-361)の書を全国より収集し愛した。太宗は自分の墓に書の全てを副葬させるなど異常なまでの執念を持っていた。そのため公式には王羲之の真跡は全て土に還ったとされ、また何者かにより盗掘され墓から持ち去られた真跡は散逸した。
王羲之の真跡は、今や誰も手にする事はできないが、古来より書を尊ぶかの国では複写の技法が発達していた。唐の太宗皇帝はじめ歴代の皇帝は、当時最高の技術により精巧な複写を作らせ下賜していた。図2.1は羲之の50歳頃の書状で、有名な「喪乱帖」の羲之の部分である1)。世界で唯一の喪乱帖の搨模本であり、保存状態が極めて良いので、その筆妙をよく伝える精巧な模本として第一級品と言われる。この書は、奈良時代に唐帝室より答礼品として聖武天皇(701-756)に贈られ、正倉院に納められていた。そのあと三十三間堂で有名な京都妙法院に下賜されたが、明治 13 (1880) 年に皇室に献上され御物として宮内庁三の丸尚蔵館にて所蔵されている。
搨とうも模と双そうこうてんぼく鈎塡墨と呼ばれる透かし写しの2つの方法を適宜用いて複写されている。単純な透かし写しの搨模は、細線部に適用された。双鈎塡墨は真跡の上に薄紙を載せて文字の輪郭を点描により籠字(双鈎)状に写し取り、後で文字内部を墨で埋めていく技法である。墨で埋めるのも単にベタ塗りするのではなく微細な筆の穂先で点描しながら墨の濃淡や掠れも再現する。この技法は、近年のデジタル画像技術で完成した周波数変調型の誤差拡散法を人力で成し遂げたものとも言える。かの国は豊富な人手を組織的に運用する仕組みが伝統的にあり、今日までそれが脈々と受け継がれているものと思われる。
図 2.1 喪乱帖羲之の部分1)
参考までに、喪乱帖は、356 年頃に書かれたものであり要旨は以下の通りで書家の心情が読み手に伝わる。「害毒を及ぼす族により先祖の墓が再び壊され修復したが、未だその地に墓参できない、その心肝を貫く悲痛な気持ちで羲之は礼をいう」この文脈について筆者は次のように想像する。当時でも王羲之の書は大変値打ちあるもので、書状の受取人のために渾身の力を込めて揮毫された。恐らく墳墓の修復の関係者と推測され、揮毫書状による返礼の意図があったのではないかと考えられる。
前節で説明した、搨模、双鈎塡墨は、多大な時間と労力が必要とされ、一連の工程により真跡から1つの複写が得られるのみである。
時代の要求に応えるべく、書跡を石や木に貼付けて精巧に彫り刻み模刻を作る。それを版にして必要に応じて複数の拓本を作る方法が普及していった。模刻は鏡文字で彫られていないので、水で湿らせた紙や絹布を模刻に密着させ墨の打包で叩くと白黒反転した複製が得られる。
図 2.2 は、秋月帖の「羲之」の部分であり東京書道博物館が保有する2)。これは清の乾隆12 年(1747 年)に刻された三希堂法帖からの拓本である。この模刻には、王羲之が356 年頃に書いた見舞状の双鈎塡墨が書跡として使われているので、双鈎塡墨、模刻、拓本という経緯を持つ3世代目の複写と言える。
模刻を版として複写を多数作るやり方は、印刷にも通じるところがある。しかし、この方法での複写は手書き書体の審美性を重視する傾向が強く、とかく文書内容が偏りがちである。従ってあらゆる分野の文書情報つまり記録的文書、芸術的文書、図像などの流布によって一般社会に正確な知識を与え導くには至らなかった。世界史を振り返れば、ヨーロッパで1445 年までに金属活字を用いる活版印刷技術がグーテンベルク(Johannes Gutenberg, 1398-1468)により発明され、ルネサンス、宗教改革、科学革命へとつながった。この活版印刷の歴史と比べると、模刻による複写物が社会に与えた影響は限定的で小さいものであった。
複写は、貴重な原本の複製を1 部でも良いから作ろうとする企てであるが、印刷は当初から多数部の複製を作るのが前提で技術が発達してきた。奈良時代につくられた「百万塔陀羅尼経」は、出版年が判っている現存する印刷物としては世界最古のものである3)。陀羅尼経が印刷技術によって大量に複製されたのは、戦乱で亡くなった人々を悼んだ女帝称徳天皇(718-770)が、764 年に、供養と平和祈願のために作らせた。木材で高さ200 mmほどの小さな三重の塔3)を百万基をつくり奈良と近畿地方の10の国分寺に、各々10万基ずつ奉納したと伝わる。現在残っている塔は法隆寺に安置されたもので、陀羅尼経は、約2000巻が確認されている。紙幅54 mmの小さな巻紙は図 2.3 に示す塔内に納められている。
図 2.2 秋月帖羲之の部分2)
図 2.3 百万塔国立博物館蔵3)
経文の刷版素材は恐らく硬い木が用いられたと推測されるが、1版で100万刷には耐えられず相応の重版が作られたと考える。付け加えるが、経文の印刷文字には審美性は期待できず、手書きの書を元に作る模刻からの拓本には比較できるものではなく敢えてここに掲載はしない。
ヨーロッパでは、活版印刷が今から500 年以上も前に発明されて普及していた。漢字文化圏への活版印刷技術の伝来はあった筈であるが普及には400 年も遅れた。その要因のひとつは、文書構成の必要活字数が漢字活字数に比べはるかに少ないので組版が容易で規格化、標準化できた。さらに審美的要求に応える活字も比較的簡単に設計・製作でき、活字種類も豊富に提供できたところにある。図 2.4には、マインツで1452-55 年の間に180 部が出版された有名な「42 行グーテンベルク聖書」の忠実な復刻版4)と、その部分拡大を図 2.5に示す。現代の最新技術による印刷品位にも劣らぬ物であることがわかる。黒赤の2 色刷りのあとから飾り文字と飾り罫が金泥などの顔料を用いて手書きで加えられている。現存するものは不完全なものを含め世界に48 部と言われる。
この後、ヨーロッパでは聖書だけでなく、様々な書籍の活版印刷は、宗教改革、科学革命の推進に寄与した。印刷技術の進歩はあったが、複写、複製技術には目立った技術革新はなく、光化学反応を用いる銀塩写真、青写真の発明まで、活版印刷の普及からおよそ400 年の歳月を要したのである。
図 2.4 復刻版42 行聖書Mainz1452-554)
図 2.5 42 行聖書部分拡大4)
参考・引用文献
1) | 下中邦彦, "書道全集第4巻"第11刷, 東京, 平凡社, (1971), 29p. |
2) | 下中邦彦, "書道全集第4巻"第11刷, 東京, 平凡社, (1971), 86p. |
3) | https://colbase.nich.go.jp/collectionitems/tnm/N-241?locale=ja(accessed2021.5.3) |
4) | Seiteausder42zeitigenBibelGutenbergs.Mainz1425-55 GedrucktinderGutenbergWerkstattinMainz1997 (著者所蔵) |
熟練の職人が注文を受け、初めから最後の段階まで手作業で品物を作っていた時代は終わり、19 世紀に入ると蒸気機関の動力を用いた工場で、大量の製品生産が行われるようになる。造船、建築物などスケールの巨大化、複雑化とともに、全体図、部品図、組立図なども求められ、図面枚数も増加した。
事務所、工場で働く多数の管理者、その下で組織化されて働く人々は、製品の図面をはじめ重要事項を正確に理解、共有することが求められた。ここに図面を含む文書複写の強い要求が生まれた。
近代国家の成立とともに公的機関が扱う重要文書が膨大になり関係組織間での文書情報の共有も求められた。近代化した経済活動、各種取引でも契約書、各種伝票など複写の必要が生まれた。
当初の要求はひとつの原稿から数枚の複写ができれば十分であったので手作業の複写でも十分にそれに応えることができたが、文書処理量の増加と共に、高速化可能で精巧な複写技術が望まれた。
圧力を用いる複写に利用するカーボン紙は、19 世紀初頭の機械式タイプライターのインク供給に用いられた。カーボン紙は、黒、青、赤色の顔料をワックスに分散した固形インクを紙に塗布したものであった。2枚の用紙の間にカーボン紙を挟んでタイプを打つか、鉛筆、ボールペンなどで圧力をかけて筆記すると複写ができる。現在でも便利に使われるノーカーボン帳票用紙は、表面に顕色剤層、裏面にマイクロカプセルに封入された発色剤層が設けられている。ボールペンなどの筆圧によりマイクロカプセルが壊れて発色剤が顕色剤と混じり合って発色する。重ねる用紙枚数を増やせば3枚以上の複写が得られるが、下層では圧力が弱くなって印字はぼやけてくる本質的な弱みがある。それでも複写の際の筆記圧力、タイプ圧力が一定では無く、毎回複写のばらつきが発生し、改ざん防止に役立つという利点もあった。
蒸気機関の性能を著しく高めたスコットランドの発明家、機械技術者であるワット(James Watt, 1736-1819)は、1780 年に圧力を用いた複写機も発明している。薄い複写用紙を溶剤で湿らせてから原稿に重ね、ローラーの間を通して加圧することにより原稿のインクの一部を用紙に転写させて複写を行う。複写の原理から、原稿が多少傷むこととインクが染みやすい薄紙を用いる制約があったが、特許取得され事業成功し、20世紀初頭まで利用されていた。図 3.1 にはジェームズ・ワット&カンパニー社1815 年製造の複写機を示す1)。
図 3.1 ジェームズ・ワットの複写機1)
塩化銀、臭化銀などのハロゲン化銀つまり「銀塩」を感光材料に用いるものは主として写真フィルム、写真印画紙に用いられた。特別な場合は、高価な印画紙を用いた複写も行われたがこの節では割愛し、工業用図面、建築設計図面の複写に多用された青写真と、一般事務文書にも用いられたジアゾ感光紙を以下に説明する。
天文学者ウィリアム・ハーシェルの息子ジョン・ハーシェル(Sir John Frederick William Herschel, 1792-1871)は父の偉業を継いだ天文学者であるが、1842 年に青写真を発明した化学者でもあった。鉄イオンは、近紫外光によって3価から2価へ還元される性質を持つ。このことを利用し、クエン酸鉄アンモニウム
(C6H5+4yFexNyO7)などの鉄塩溶液を均一に塗布した感光紙を用いて原稿を密着露光し、原稿の濃淡を鉄イオンの濃淡に変換して潜像を形成させる。3価では反応しないが2価の鉄イオンと反応し青発色する赤血塩K3[Fe(CN)6]で現像する。この結果、原稿から反転した青地に白文字、白線の陰画の複写が得られる。
発明当時は強い近紫外光源は無く、専ら太陽光により数分間露光されたので日光写真とも言われた。現在は殆ど使われないが、第二次大戦前の工業用図面は、透かして複写できるトレーシングペーパーに黒色のインクを用いて烏口で描画されたものが原稿となっていた。
この方法で複写された図面などは青写真、青図といわれてきた。現在は転じて大規模な計画、長期計画の意味として用いられる場合が多い。
通常の書類は、白紙に黒のインクを用いて筆記、描画、印字される。青写真は青地に白線の仕上がりという陰画であるため、書類に追記、訂正したりサイン、捺印するような場合、都合が悪かった。白地に青線で複写される陽画タイプの感光紙が期待されていた。
青写真が無機化合物の鉄イオンの光還元を原理にしているのに比べて、陽画感光紙は、有機化合物であるジアゾ化合物(diazo compounds)の光化学反応を用いる。ジアゾ陽画感光紙に塗布されているジアゾニウム塩の光分解により非画像部は紙白となり、画像部は、現像工程でカップラーとの反応でアゾ色素を生成する。結果として色素発色による画像が作られる。図 3.2の上部は非画像部、下部は画像部の青色アゾ色素発色反応プロセスを示している2)。実用に耐えるジアゾ感光紙はドイツのカーレ社(Kalle GmbH)が1923 年にオザリッドM感光紙(Ozalid M paper)という名前で発売した。昭和初期から日本でも輸入販売されたが
複写画像の発色が赤褐色であったので青写真に対して赤写真とも揶揄されていた。
理化学研究所の桜井季雄は、アゾ色素の研究開発を重ねて1927 年に発明した「紫紺色陽画感光紙」の特許出願により日本、米国、ドイツ、英国、カナダの5カ国で特許権を確保した。世界の有機材料の研究者達が、好ましい発色のアゾ色素の合成に挑戦していたが、日本の研究所がそれに先駆けて成功したのである。この桜井の発明は1929 年に「理研陽画感光紙」として商品化され、理化学興業㈱より販売された。のちに理研感光紙㈱として1936 年に創立された企業が現在の㈱リコーの源流である。
理研陽画感光紙は当時工業用として一般に使用された青写真感光紙を置き換える形で販売されていた。そのため青写真用の焼付機を転用して露光機に用い、アンモニアガスを充満させたタンクの中で現像した。従って一般事務用の文書複写にこのプロセスをそのまま適用するには解決すべき課題が多くあった。現像材料や複写装置の革新が求められ相当の挑戦が行われたが、この具体的内容については、4章4.1にて説明する。
図 3.2 ジアゾ発色反応プロセス(上:非画像部、下:画像部)2)
静電気現象は古代より知られていたが、ドイツの実験科学者リヒテンベルク(Georg C. Lichtenberg, 1742-1799)が1777 年に行なった実験をまず説明しなければならない。その理由は彼が現在でも主流の静電複写機の画像形成につながる現象を世界で初めて確認し利用したからである。瞬時に消滅する静電気放電現象を可視化したのである。
摩擦起電機により高電圧を発生させ誘電体の板に向けて放電させる。これに様々な種類の粉末を振り掛けて、静電気のパターンを可視化させ特徴的な樹枝状、放射状の図形を得た。これが有名なリヒテンベルクの図形と言われる。
リヒテンベルクの実験から161 年後に米国の物理学者、発明家、弁理士でもあったカールソン(Chester Floyd Carlson, 1906-1968)によって近代的複写方式が発明された。カールソンは、カリフォルニア工科大学卒業後ベル研究所に入ったが世界恐慌のため解雇された。そのあと弁理士事務所に職を得て働くが、特許申請には出願書類を何部も用意する必要があり、図や文書を複数作成するのに仕事の大半が費やされていた。当時も、原稿を大型カメラで銀塩印画紙に直接焼き込むフォトスタット(Photostat)3)と呼ぶ複写機が提供されてはいたが普通の事務用途には高価でとても使えなかった。彼は結婚後まもなく自宅アパートの部屋を実験室にして新しい複写の実証実験をしていたことからも発明への本気度と意欲が窺える。
電子写真という専門用語はカールソンが1938 年に発明し1939 年に出願した特許の表題として記されている「Electrophotography」の直訳である。暗中では電気絶縁体であり、光照射によって電気伝導度が増加する性質を持つ、光導電性材料を用いて感光板を作る。暗中で感光板表面を一様に帯電し、原稿画像を露光すると原稿白部の静電気は消失し、画像部は残り静電気の潜像が得られる。この静電潜像の極性とは逆極性に帯電した乾いた着色微粉末を振り掛けると現像される。これをワックス紙に転写して加熱定着させる。この一連のプロセスを彼は電子写真と名付けた。図 3.3に彼が発明に成功した10 月 22 日(19)38 年の日付と、居住アパート兼仕事場のニューヨーク州クイーンズの町名ASTORIAが記録された歴史的画像サンプル4)を示す。その最初の発明を翌年 1939 年に特許出願し、1942 年に米国特許を取得している5)。この技術は後にカールソンプロセスとも呼ばれる。
図 3.3 カールソン最初の画像4)
図 3.4 に示す特許明細書に示された電子写真の一連のプロセス図は5)現在の複写機に適用されている通りである。帯電、原稿露光、粉末現像、転写、定着の各プロセスは発明当時の技術が用いられている。原理的には現在も全く同じであり、実に解りやすく素朴な発明ではあるが普遍的であった証拠でもある。
図 3.4 電子写真基本特許プロセス図5)
この方式は、感光板表面から乾いた粉末画像を用紙へ転写するのを特徴としている。これが実際の複写で要求される様々な用紙が使えるという利点と特徴になっている。感光紙、印画紙を用いる他の複写方式に比べて、実用面において圧倒的に便利なものであったが、自動機械として一般事務所で使える複写機の完成には20 年を要した。感光体から粉末画像を転写するものを、この3章以降では「電子写真・間接乾式」と呼び他と区別することにする。
技術発展の一般論からすれば、直接法の改良版として間接法が生まれる場合が普通であるが電子写真においては逆の展開となった*)。カールソンの電子写真・間接乾式の特許出願から12 年後にRCA(Radio Corporation of America)からエレクトロファックス(Electrofax=簡略してEFと呼ぶ)と名付けた電子写真・直接乾式の特許が出願されていた。その出願は1951 年にあったが放棄され、基本特許の出願は1953 年で、特許権が成立したのは9 年後1962 年6)であった。この当時 1959 年にカールソンの電子写真・間接乾式を自動化した複写機XEROX914が世界で販売され大成功していた。RCA研究者がXEROXの研究室見学後に出願した事実も発覚した。それも含めて先行するカールソン基本特許からの新規性を問われ、特許権の取得に9 年もの期間を要したものと考えられる。
図 3.5 の図中の番号で、酸化亜鉛感光紙の巻取り17が反時計方向に回り18で一様にコロナ帯電され、23でフィルム画像を投影・露光して静電潜像形成、27で粉体による乾式現像、31で粉体画像が定着されていく原理プロセスを示している。このプロセスにより酸化亜鉛感光紙上に形成した静電潜像を磁気ブラシを手に持って現像している様子7)を図 3.6 に示す。さらに現像の模式図を図 3.7に示す。図中の磁石S極に鉄粉が刷毛状に形成され、鉄粉にまぶされ正極性に帯電した着色粒子のトナー(toner)が現像され可視像となる。無論、現像は安全光の下で行われるが、筆者も素朴な磁気ブラシを用いた手現像、同クリーニングの実験をしたことがある。図中の電子写真紙は、負極性潜像が形成された酸化亜鉛紙と読み替えて頂きたい。
酸化亜鉛は光導電性を持つことが知られていた。その微粉末は、白色でありこれを用紙に塗布して裏面に導電性を付与すれば電子写真感光紙となる。実用的には、酸化亜鉛微粉末は増感色素と共に高絶縁性のシリコーン樹脂などに分散され塗料の状態で、導電処理された用紙に塗工された。酸化亜鉛粉末の光感度は、近紫外領域375 nmにピークがある。図 3.8 に示す様にローズベンガル(rose bengal)などの色素を用いて可視光感度を持つ様に増感して用いられた。図の縦軸の「VOLTAGE DROP」は、詳細説明は省くが感度の相対値と見なして良い。感光紙は色素によりピンク色、または補色の色素により無彩色に調整され灰白色になっていた。普通紙よりも重い酸化亜鉛塗工紙は加筆性も悪く技術進化の方向からは逆行していた様にも思える。しかし間接方式のカールソンプロセスを用いた複写機は全体機構が複雑で機能部品も特殊であった。当時の技術では信頼性や安定性も十分でなく、毎月欠かさず保守サービスを行うのが前提で成り立つ商品でもあった。
図 3.5 エレクトロファックス特許6)
図 3.6 磁気ブラシによる手現像7)
図 3.7 磁気ブラシ現像模式図8)
電子写真・直接乾式であるEFは画像形成プロセスが単純であり、商品化において製品のサイズ、コストなどの点で優位な面もあった。RCAは自社で製品開発は行わず積極的に、他社に技術ライセンス供与する戦略をとった。感光紙の消耗品ビジネスとしての魅力もあり日本の製紙会社なども含め、多数の企業が事業参入を目指してRCAと交渉していた。
*)カールソンの電子写真基本特許は第1請求項にて直接乾式の権利が確定、RCAのElectrofaxは同権利範囲に含まれる。しかしEFは感光体を酸化亜鉛に限定することで特許が成立した。その理由は酸化亜鉛を樹脂結着した感光紙は白色で紙のように扱えたからである。なお、カールソンプロセスを間接乾式で商品化したHaloid社はギリシャ語の乾式に因みXerographyと名付けている。
電子写真・直接乾式であるEFは、画像形成プロセスが単純だと上に述べた。しかし感光紙、現像剤が環境温湿度で大きく変動したので商品化の段階で相当に手間取っていた。また現像方式に画質が良い磁気ブラシ現像を使ったのでこの自動機構設計にも困難があった。
オーストラリア連邦政府機関として、防衛産業・分析サービスなどのために1954 年に設立されたDSL(Defence Standards Laboratories)から、メトカーフ(Kenneth A. Metcalfe)らによる電子写真の液体現像に関する発表9)と発明10)が1956 年にあった。この方式は電子写真・直接液式と呼ぶのが妥当なのかもしれないが、当時の日本国内での複写機業界の用語に従って「湿式」と呼ぶ。DSLでは、金属部品の非破壊検査に、銀塩のX線フィルムを用いていた。これを非銀塩の方式に変えコストと処理時間を改善しようと考えた。RCAから発表されたEFの乾式磁気ブラシ現像に代替できる液体現像つまり湿式現像を開発していた。湿式は乾式と比較して湿度の影響を受け難く、比較的低電位の静電潜像で現像でき、トナーの粒子径が微小で解像度も高いという利点があった。液体現像剤は絶縁性炭化水素液体に、トナーとして顔料・樹脂・極性制御剤を分散させ、原理的には図 3.9 のような形で現像した8)。図中のゼログラフィー感光板は、酸化亜鉛感光紙と読み替えて頂きたい。図 3.10 にはメトカーフの特許 10)の説明図にある、現像領域で潜像電場によってトナーが泳動する様子を示している。
図 3.9 液体現像トナー電気泳動の説明8)
図 3.10 現像領域でのトナー泳動の説明10)
酸化亜鉛感光紙を使う湿式法は、潜像形成後の感光紙を現像液に浸すだけで現像できるので、現像装置が小型化、単純化もできた。さらに現像されたトナーは、冷風乾燥で感光紙のバインダー樹脂に自己定着するので加熱溶融定着も不要であるなど、事務用の汎用小型複写機を設計するには都合が良かったのであった。
「電子写真・直接湿式」は、前記の通りオーストラリア連邦政府機関DSLのメトカーフらにより発明され、1961 年にリコーに日本での独占実施権を与えた経緯がある。
複写用材料の研究、開発、生産部門を歴任したリコーOBの櫻井實との面談で、友人である吉田秀夫からの電子メールを紹介された。その内容は「井戸を掘った人は報われず、水を汲み上げた者が評価される」といった趣旨であった。企業組織の中では、良くある話かもしれないが、新型複写機事業への道を見つけた人が正当な評価も受けずに忘れられていく悔しさが滲み出ていた。その部分は敢えて割愛するが、以下に吉田の功績と、櫻井らの60 年前の記憶をここに記し敬意を表したい。
送信者: 吉田秀夫
宛先: 櫻井實
件名:Re: DSLのこと
送信日時: 2004 年 7 月 9 日 22:44:06
私は、昭和 33 (1958) 年 4 月 1 日入社、直後から米軍担当の特需係りに配属され、自動車の運転免許を持っていたので、即日関東圏の米軍拠点へのジアゾ感光紙や機器のサービス、発売されたばかりのリコピー303や505の営業をしている毎日でした。同年秋口に市村社長に直談判して、リコピーの東南アジア向け輸出許可を貰いました。通産省が主催するシンガポールでの海外見本市にリコピーを出品する起案をして諒解を取り準備を始めました。そのとき偶然な話ですが、リコーカメラを買いにきた豪州の老婦人2名を、西銀座デパートのカメラ店に案内した際に、同婦人の財布がスリにあったのです。その顛末を朝日新聞に掲載してもらい、返還に期待をもちました。結局、財布は出てこず、パスポートの再発行の為に三田の豪州大使館へ同行したり、箱根や鎌倉への観光に婦人達を案内したことがリコー社内で話題になりました。
そのことが、シンガポール見本市から豪州まで出張の延長が許された事情です。東南アジア、豪州、そしてニュージーランドへの出張が決まり、リコピー505を担ぎ、翌年(1959)1 月末から出張に出掛けました。当時、カメラの輸出ルートはありましたが複写機は別の新ルートを探そうと決めていました。東南アジアは、第一物産(現・三井物産)、豪州は、羊毛扱いから実績のあった伊藤萬に相談をしていて、その縁で豪州に出掛けました。現地の複写機代理店候補のバグレイ社(BagleyPtyLtd.)の老社長と懇意になりました。その理由は、小生が「electrostatic」の専門語を解っていたからです。久保敬司さんよりRCA特許、投影式リコーファックスM4の新入社員技術研修を受けた時に用語を覚えていたのです。バグレイ氏のお店にDSLの液体現像特許を使った試作機があり、その説明を受け、小生は、electrostaticに加えてこの技術は、wet-processだとも理解しました。
この件を市村社長に帰国報告した折に、社長は現像液を使うプロセスは進歩した技術とは思えない「退歩だ」と、はっきりと云われその場では議論はせずに引き下がったのでした。感光紙営業部部長の西山健二さんから、企画部部長の山本厳さんに事情が伝えられました。当時の大田区中馬込の本館3階会議室にリコーの技術者を集めて、小生が、現地から持ち帰った酸化亜鉛感光紙のコピーサンプルを見せました。現地のDSLでは譲ってくれず、同研究室の屑篭から無断で持ち帰ったサンプルを見せながら、見聞きしたもの一部始終を説明したのです。同年 5 月頃に伊藤萬を通じ、DSLの技術者が来日すると問合せがありました。DSLはリコーの吉田秀夫を指名して会いたいと言ってきました。早速、私は山本厳さんに連絡を取ったところ、リコーで日本での独占実施権を得る交渉をしようとなりました。実は、DSL側は富士写真フイルムほか国内7社との契約交渉を希望していました。市村社長の諒解の下、何とかして独占契約をしたいのでDSLの来日代表の3名の応対を小生が受け持ち、当時の婚約者である青樹美枝子に和服を着てもらい、二人で連日の接待をして、浅草などを案内したことは懐かしい想い出になっています。
また、リコーの研究開発部門の担当者は、以下のように当時を振り返る。
『昭和 32 (1957) 年、山本巌、池田幸吉、久保敬司、鈴木茂の4名は米国GAF(General Aniline & Film Corp.) Ozalid部門でのジアゾ複写技術提携と修得が終わる頃、注目すべき新しい複写方法があると示唆された。一行は帰国前にRochester, NYのHaloid社でXerography、New York CityのRCA社でEFの2方式を実際に見学することができた。ジアゾ感光紙では不可能な反射光による複写が可能で、現像液を使わない完全にドライなプロセスに魅せられた。
RCAはHaloid-Xeroxと違って積極的に技術を売る会社だったので、この時期に日本ではリコーのほか7〜8社がいっせいに技術導入し、電子写真の開発競争が始まっていた。日比谷のRCA東京事務所の曽谷さんをたずね、酸化亜鉛をローズベンガルで増感し、シリコン樹脂をバインダーとした濃いピンクの紙を、葉書ほどの大きさに切って分けて頂いて実験をスタートさせた。
マイクロフィルムの透過投影像から鮮明なコピーが得られた。いち速く、35 mm投影式プリンターであるリコーファックスM4を発表して気勢をあげた。これは暗室内で作業するもので、現像と定着は手動である。だがその先、本命の反射焼きで行き詰まった。暗室で磁気ブラシを手でそうっと動かしてゆけばきれいなコピーがとれるが、これをそのまま装置化すると超大型の低速機になってしまうし、小型化、高速化を企てると地汚れのあるコントラストの悪いコピーしか得られない。現像方式が最大の難問題であった。この「水も薬品も使わない乾式現像方式」であることこそ電子写真の最大のメリットと期待される特徴であるのだが、感光紙も問題だらけだった。低湿でも高湿でもコピーはとれない。冬には湯気を立てながら実験をしていた。この時期、南ア連邦のヨハネスブルグにリコーファックスM4が1台輸出された。アフリカが乾季になった頃にクレームがきたが、どうしようもなかった。当時は未だ酸化亜鉛感光紙の湿度依存性を制御できていなかったのである。
昭和 33 (1959) 年、貿易部の東南アジア担当の吉田秀夫氏が、オーストラリアの代理店エアマン社を介し、シドニーでリコーのジアゾ複写機を販売しているバグレイ氏(Mr. Bagley)が面白い複写方法を発明したという情報をキャッチした。熱心な町の発明家でもある同氏は、オーストラリアの政府機関であるDSLアデレード研究所のメトカーフ(K. A. Metcalfe)が発明した電子写真の液体現像法のことを友人から聞き、それを自分のアイデアで改良してPRしていたのである。DSLでは絶縁性キャリヤー液体として石油系溶剤を使っていた。これをふわふわのコロイド状シリカに変え、この中に色鮮やかな染料の粉末を混合した現像剤をジアゾ複写機の現像液皿に入れておく。帯電、原稿露光した酸化亜鉛紙を通すと静電潜像の部分に染料の粉末が付着し複写ができるのである。素人にしては見事な改良だった。企画部長山本厳は、リコー技術陣をDSLに派遣してDSLの液体現像技術を評価しオーストラリア連邦政府と交渉の結果1961 年 3 月日本での独占実施権を取得するに至ったのである。図 3.11 に示す写真は、1961 年 6 月に電子写真感光紙(色素増感型)を用い液体現像されたものである。図 3.12には、銀塩写真のネガ(negative image)を用いて露光、潜像形成された白色酸化亜鉛紙を反転現像して得られた原寸大のプリントを示すが、60 年前のものと思えない変色も皆無で驚くほど鮮明である。
図 3.11 DSLでの液体現像技術移転のためにリコーより派遣された技術者達11)
前列左から櫻井實、鈴木茂、右端は武藤憲吉
図 3.12 白色酸化亜鉛感光紙をカーボンブラックトナーで反転現像12)
しかしながら、技術移転を受けたリコーは実用化のために何年も苦しんだのであった。その理由について以下に記す。
DSLの現像液は顔料と樹脂、極性制御材などの混合物を十分に加熱処理硬化(heat curing)した後に不活性溶媒中に分散させたもので、多分、地肌(back-ground)汚れの原因になりやすい超微細粒子や溶出物が少なかったのだろう。これで現像した後、きれいな溶媒中を通すウオッシング操作できれいな画像に仕上げるのである。現像液中の着色粒子は1 時間もせずに沈降してしまう。「なに、もいちど、掻き回せば使用できる」と実験室中での話である。機構設計担当の鈴木茂が、現像液の撹拌とか、ウオッシングとかの機能を小型複写機に求められても困る、と言うのは尤もな話であった。契約交渉の山本巌に同行した最初の訪問時には使用した現像液はさっと持ち去られ、保存性を確かめることは出来なかった。手際の良さに幻惑されたか、経験不足で予測できなかったのだった。』
以上を櫻井實は以下のように要約している。
「吉田秀夫のバグレイ社訪問がきっかけでDSL技術をいち早く知ることが出来たのは幸運であった。社長の市村清は「湿式は退歩だ」とはじめは否定的な見方をしたほどだったが、まもなくその画期的な優秀性を認識し、技術導入の方針を決めた。しかし我が国が明治以来の貿易赤字に悩んでいた当時は、何故リコーだけがRCAの技術だけでは商品化が出来ず、さらに別の技術を導入せねばならぬのかと、通産省の態度は厳しかった。各界から一目おかれていたリコー創業社長の市村でなかったら認可を得るのは容易なことではなかったろう」。
こうして、DSLの技術は導入され、酸化亜鉛感光紙を用いる、電子リコピーの商品化成功により、やがて大きな利益をもたらすことになる。だが、このDSLの技術は研究段階のものであり、信頼性のある商品に仕上げるにはさらに5 年以上の開発期間が必要だったのである。
参考・引用文献
1) | ThinktankBirmingham-object1951S00088.00001 (1).jpg(accessed 2021-9-29) |
2) | 日下田茂"ジアゾ作像技術"日本画像学会誌Vol.51, No.1, pp.81-91 (2012) |
3) | https://en.wikipedia.org/wiki/Photostat_machine(accessed 2021-5-4) |
4) | https://www.xerox.com/en-us/innovation/insights/chester-carlson-xerography(accessed 2021-9-29) |
5) | Chester F. Carlson, “Electrophotography”Application April 4, 1939, USP2, 297, 691(1942),1p. |
6) | Harold G. Greig, (Radio Corporation of America),“Electrostatic Printing”Filed Oct. 1, 1953,USP3, 052, 539(1962) |
7) | C. J. Young and H. G. Greig, “Electrofax DirectElectrophotographic Printing on Paper”, RCAReview, Vol. 15, No. 4, pp.469-484(1954) |
8) | R. M. シャファート井上英一監訳 “電子写真” 初版 ,東京 , 共立出版(1973), pp.19-21 |
9) | Kenneth A. Metcalfe, Robert J.Wright“Xerography, ” Journal of the Oil and Colour Chemists’Association, Nov. 1956, Vol. 39, No. 11, London,England. |
10) | Kenneth A. Metcalfe, Robert J. Wright “Processfor Developing Electrostatic Image with LiquidDeveloper” Application Dec 19, 1956,USP2, 907, 674(1959) |
11) | リコー資料室保管プリントサンプル |
12) | 櫻井實保管サンプルを筆者へ移管し利用 |
13) | 江田研一(コニカ)“コニカ創業 120 周年を記念し、複写機開発の歴史を探る” Konica TechnicalReport Vol. 6, p. 6(1993) |
14) | 社史編集委員会“リコー60 年技術史”㈱リコー, 東京 ,(1996), 76p |
15) | リコー資料室保管プリントサンプル |
黎明期の電子写真装置と画像
昭和 29(1954)年にRCAからEF技術が開示された。この技術を用いて小西六写真工業、理研光学工業は35 mmマイクロフィルムを酸化亜鉛感光紙に写し取るプリンターを開発した。当時、貴重な文献などはカメラで接写したマイクロフィルムから銀塩印画紙に焼き付けて読まれていた。その印画紙焼き付けの手間を省く目的で、図13は小西六から1959 年に発表されたKonifax実験モデル、図14は同年に理研光学から商品発売されたリコーファックスM4である。図14の帯電露光ステージ上をコロナ帯電器が左右に動いて感光紙を帯電し、上方からのフィルム透過像の投影で静電潜像が形成される。筆者が入社のころM4は未だ健在で、開発中のCdS感光板の評価など便利に活用したものである。
図 13 Konifax 実験モデル13)
図 14 リコーファックス M414)
米国ゼロックスが非晶質セレン(a-Se)を用いて複写機を開発していることは知られていた。図15は理研光学の太田和三郎が1960 年に真空蒸着にて作製した a-Se 感光板を用いた、間接乾式の普通紙転写画像で同社最古のものである。写真中央上部は市村創業社長邸宅、中下部の縦横目地割りされた白い部分は環七通りでコンクリート舗装されている。右上に f = 8, 1 /5 sec の露光量データのメモがあり、M4を用いて静電潜像形成し磁気ブラシ手現像したと思われる。(原寸148 × 210 mm,A5サイズ)
図 15 Se 感光板による間接乾式画像サンプル15)
複写技術の世界史は2〜3章に述べた。我が国で、複写が社会的に広く認められ、産業として目覚ましい成長を遂げるのは、昭和 30 年代に入ってからである。国民一人当たりの実質国民総生産が、1955 年に戦前の水準を超え「もはや戦後ではない」と当時の経済企画庁の経済白書で結語された。この言葉からわかる様に、民間企業活動、一般社会活動が盛んになり、それとともに複写の需要も増えていった。
造船、建築、自動車、工作機械などの業界では製品製造のために数枚から数10枚の同一図面を必要としていた。そのために図面複写を対象にした工業用ジアゾ複写機が使われていた。カーボンアーク灯、水銀灯を用いた焼付機で透過原稿をジアゾ感光紙に焼付けた後、アンモニアガスで現像する。そのため排気設備のある部屋でなければ使えず、ジアゾ複写機は、専ら工業用途であった。
丸星機化工業㈱(現キヤノンに合併)より1951 年に出た「コピア複写機」が最初の国産複写機であったが、焼付機、現像機が別体であり事務用複写機としての汎用性は低かった。
理研光学工業(現・リコー)㈱は、昭和 28 (1953) 年に開発した新型ジアゾ感光紙を用いることでアンモニアガスによる現像と水洗いを不要とした無水、無臭の現像技術を実現した。第3章にも述べたとおり、ジアゾ複写技術は感光紙に塗布されているジアゾニウム塩の光分解により非画像部は紙白に、画像部は光遮断され現像工程でカップラーと反応してアゾ色素の紫紺色を生成する光化学反応を用いている。開発に際して最初に判明したのは、アンモニアガス現像用の乾式感光紙をアルカリ現像液に浸すとカップラーとの反応速度が遅く、画像滲みが生じた。膨大なジアゾ化合物の中から、カップリング反応速度が焼付機の露光速度に合致した材料を見出すことで解決した。これを1953 年にND感光紙とND現像剤として発表した。
昭和 30 (1955) 年に発売した「リコピー101」は我が国初の露光・現像一体型の卓上複写機である。図 4.1 に示すように1)、一般事務室で使えるものであった。ND感光紙とND現像剤が使われた。図上は、原稿・感光紙挿入口を開けた待機状態、図中は、内部機構が見えるように外装カバーを開けた状態で、手前右にシロッコファン(sirocco fan)と、400 Wもあり発熱する水銀灯冷却用の空冷ダクトが見える。図下の断面図では感光紙の上に原稿を重ねてガラス・シリンダーに巻きつけ密着露光、露光後の感光紙を分離して現像皿に導く様子が描かれている。価格は¥138, 000で、B4 /A4サイズの複写で、毎分 5枚の複写速度であったが、当時は画期的であった。リコピー101により、事務文書、伝票類、さらには役場の戸籍抄本など証明書の複写が机上で手軽に行えるようになり事務の合理化の先駆となった。それまでは役場の証明書類は事務員が、原本を横に置き筆写していたのである。そのため「ペン字を綺麗に書ける」のが役場の事務職員採用条件の一つでもあったといわれる。
図 4.1 リコピー101同型機、外観、内部、断面図1)
図 4.2 には、昭和 49 年(1974)にコピーされた戸籍謄本の紫紺色ジアゾ複写物の部分拡大を示す2)。この戸籍簿は大正 7 年(1918)に作成されていたが、法務省令第27号による改製時の昭和 35 年にジアゾ複写可能な透光性の用紙に筆写されている。この昭和 35 年当時の筆写からも、相応の達筆の事務職員が担当していた事と加筆訂正もあったのが窺い知られる。要するに、ジアゾ複写による事務作業の省力化は絶大で、戸籍簿を透光性のものに置き換えさせるほどの影響力があったのだと言える。
三田工業(現・京セラドキュメントソリューションズ)㈱は、昭和 31 (1956) 年「コピスターA44型」と称して同社初の事務用複写機を発売した3)。図 4.3 に示すように前述の「リコピー101」よりもひと回り大きく、500 Wの水銀灯を内蔵し、全体で900 Wの消費電力であった。A3版原稿サイズまで複写でき、書籍複写機を併用すれば分厚い書籍も反射焼きできた。図 4.4 は3)、内部機構が見えるように外装カバーを開けた状態で、図 4.5は、コピー操作手順を示している3)。
図 4.2 戸籍謄本のジアゾ複写の部分拡大3)
図 4.3 三田コピスターA44カタログ表紙3)
図 4.4 三田コピスターA44内部機構3)
図 4.5 三田コピスターA44コピー操作手順3)
リコーのジアゾ複写機全体の出荷台数は、1960 年には3万6, 000台、1964 年には約14万6, 000台と4倍に達した。日本国内の産業発展に伴い急速に市場へ普及していった。リコーのジアゾ複写機の生産台数は後継機を含め100万台を超え、「リコピー」が複写の代名詞となるほど普及した。ジアゾ複写機は運用コストが安い、原稿密着焼きのため等倍精度良好、改ざん防止など利点が多く、リコーでは消耗品販売は2016 年まで続いた。
前節で述べたジアゾ感光紙を感光させるには450 nmより短い波長の近紫外光で、0.1 J/cm2程度の露光量が必要である。現像工程で増幅される銀塩印画紙に比べて感度は、6桁以上も低い。そのため書籍などの厚い原稿、両面原稿などから反射光学系で焼付けするには光量が足りず無理があった。色素増感した酸化亜鉛感光紙に静電潜像を作る場合は低感度銀塩印画紙並みの感度が期待できた。3章に述べた通り、酸化亜鉛感光紙を用いて液体現像をする「電子写真・直接湿式」が事務用複写機に適合すると、リコーは考えたのであった。
リコーは1965 年、湿式複写機「電子リコピーBS-1」を発売した。分厚い書籍、両面原稿なども複写できる小型複写機で、これにより複写機は事務機器の中心的存在となった。図 4.6 に外観4)を示すが卓上型で、手前の引き出しトレーに、コピーの度に酸化亜鉛感光紙を1枚ずつ手操作でセットする。そのためA4、B4サイズ共に毎分 2枚の複写速度であった。価格¥298, 000で、1枚当たりのランニングコストは¥8.73 /A4、¥12.91 /B4であった。従来の電子複写機や銀塩印画紙複写機の1 /2になったと発売当時の商品カタログに記されている。さらに同じ原稿から多数のコピーが必要な場合は、ジアゾ複写機を併用することが推奨されていた。この場合は、透光性の酸化亜鉛感光紙にひとまずコピーをとり、これを第二原図として、多数枚のジアゾコピーを作るものであった。
図 4.6 リコー電子リコピーBS-1外観4)
鈴木茂により全体設計されたBS-1の断面構成を図 4.7 に示し4)、簡単に複写のプロセスを説明する。エレクトロファックス酸化亜鉛感光紙(図中EF感光紙)は、下部の引き出しにセットする際に、右端のピンチローラーに咥えさせる。原稿はガラス面に下向きに置く。上に原稿照明ランプを、下に負コロナ帯電器をそれぞれ同架したインミラーレンズ光学系で原稿像を感光紙面に結像させて左右に走査し、原稿に対応する静電潜像を作る。小泉豊の発明によるインミラーレンズ光学系は、ハーフレンズの片側にミラーが固定され、光路長を2倍稼ぐことができた。そのため低コストで小型化でき、等倍卓上複写機の標準となっていった。
図 4.7 リコー電子リコピーBS-1断面構成図4)
米国のSCM社(Smith-Corona Merchant Corp.)は、米国タイプライターの老舗であるが、酸化亜鉛感光紙を用い、液体現像をする「電子写真・直接湿式」の卓上複写機SCM Model 33を1962 年に発売していた。しかし複写対象の原稿は、シートのみで書籍などの分厚い原稿は不可能であった。図 4.8 に断面構成を示すが、図中のIMAGE PROJECTORには、通常のレンズとミラーを組み合わせた光学系が用いられていた。
図 4.8 SCMModel33の断面構成5)
図 4.9 には、BS-1の完全自動高速化された後継機で1967 年に日本と欧米で同時発売された、BS-2の液体現像装置中央断面を示す6)。
図 4.9 BS-2の液体現像装置中央断面図6)
一般事務用に用いられる複写機への要求事項は、時代とともに変遷して行った。複写機登場の頃には、筆写に比べて速く正確であることが訴求され、機器や消耗品が安く、設置場所が自由に選べることなどが求められた。複写画質、紙質の選択の自由度は二の次であった。しかし、経済成長により文書量が増えてオフィス業務も複雑で多忙になって来ると、読み易く書き込みも自由な普通紙への複写が求められた。それを可能にする「電子写真・間接乾式」の技術は、1938 年にカールソンが発明していたが、自動機械として一般事務所で使える複写機の完成までには20 年を要したのである。
ゼロックス914は、世界初となる事務用普通紙複写機として、米国ゼロックス社の前身となるハロイド社(現・XEROX Corp.)で1959 年にて開発された。日本市場向けに富士ゼロックス(現・富士フイルムビジネスイノベーション)㈱により、1963 年に国内生産が開始された。事務用複写機として、国内で製造された初めての「電子写真・間接乾式」となる。高さ、幅、奥行き1 超の大きさで、390 kgの重量があり、200 V/2.0 kWの消費電力で、当時の日本の事務所では、相当の存在感があった。図 4.10 に富士ゼロックス914の外観7)を示す。A5からB4サイズまで毎分 7枚複写できた。国産化に伴い、国内官公庁ニーズに合わせてB4用紙サイズに対応し、日本独自の規格に変更された。914という名称は、米国では複写最大サイズが、9インチ×14インチ(228.6 mm×355.6 mm)であったことに因む。
国産化に伴ってB4サイズ(257 mm×364 mm)に変更されている。日本規格への対応は、インチで記載された図面をメートル法へ変換するだけでなく、日本工業規格に適合するための設計変更および東日本向け電源周波数50 Hz対応のための電気系統の変更なども行われた。欧米のアルファベット文字圏にはない漢字の明朝体などの細線再現や夏の高温多湿対応など、国産化に際しての課題は少なくなかった。図 4.11 には内部構成8)を示す。図の中央に、φ238 mm Se感光体ドラムが見え、ドラム右下にはオーブン定着装置が配置されている。紙つまりの際の発火対策に消火器が機内に標準装備されていた。
図 4.10 富士ゼロックス914の外観7)
図 4.11 ゼロックス914の内部構成8)
図 4.12 には画像形成部の断面図7)を示している。Se感光体ドラムは、反時計方向に回転しコロナ帯電器(Charger)で一様に正帯電され、真上で、原稿画像はスリット露光(Exposure)され静電潜像を作る。次にキャリアーとトナーから成る2成分現像剤でカスケード現像(cascade development)され、Seドラム上の静電潜像はトナー像になる。カスケード現像と名付けられたのは、図に示すように乾式2成分現像剤をバケットで現像装置下部より汲みあげ、上部から小滝のように流すことに由来する。左下からローラー搬送された用紙に真下の転写コロナ帯電器(Transfercharger)を用いてトナー像は転写される。その後トナー像は、オーブン定着装置(Fixing unit)で加熱融着され複写が完成する。トナー画像が用紙へ転写された後、Se感光体上の残留トナーは、軟毛のブラシでクリーニングされる。Se感光体表面を大切に保護しつつ、綺麗にトナーを清掃できるように「雄のアンゴラ兎の毛」が設計図面で指定されていた。ゼロックスは、複写機を販売せず、レンタル方式をとった。昭和 38 年当時のレンタル基本料金は、月額35, 000円であり、我が国の会社員の平均月収と同程度であった7)。
図 4.12 富士ゼロックス914画像形成部断面図7)
我が国の歴史的高度成長が続く1960 年代にあってキヤノン㈱は、カメラ事業にのみ依存していて、そのままでは成長の限界が見えていたので、新規事業として複写機開発に着手した。しかしすでに市場には、富士ゼロックス914、電子リコピーBS-1などが出回っていたので、RCAから技術導入した酸化亜鉛感光紙を用いる複写機を急いで開発し、キヤノファックス1000として1966 年に¥600, 000で発売した。複写速度毎分 6枚、B4サイズまで複写できたが、東京オリンピック後の不況と電子リコピーBS-1の¥298, 000の価格に負けて不振に終わった。
電子写真方式で、感光体表面に形成されたトナー像を普通紙に転写、定着する「電子写真・間接乾式」が、主流になるだろうと、キヤノンは考えた。しかしこの技術は、周辺技術を含めゼロックスの600件超の特許網により幾重にもガードされ新規参入による成功の道は殆どないと思われていた。オリエンタル写真工業(現・サイバーグラフィックス)からキヤノンに1962 年に転職してきた田中宏らが、1965 年 8 月に特許出願した複写プロセスは、1967 年に「電子写真法」という表題で特許公告昭42-23910として登録された。ゼロックス技術の基本であるカールソン方式9)とは違う発明と認められたのである。新しい電子写真プロセスという意味からNP(New Process)方式と名付けられた。図 4.13 には、NP方式に用いられる電子写真感光体の断面構成を示す10)。従来技術との違いは、導電性基体、感光層、絶縁層と三層構成になり表面が絶縁層で被覆されていることである。第1ステップで絶縁層表面を正極性に一様に帯電させると絶縁層と感光層の境界に負の電荷が誘導される。第2ステップで画像露光と同時に交流コロナで表面を除電していくと、画像の明暗に対応した静電容量に応じて画像状の表面電荷分布となる。第3ステップで全面露光すると現像が可能な静電潜像が得られる。
図 4.13 NPプロセスによる静電潜像形成10)
図 4.14 キヤノンNP-1100外観10)
この発明に先行して1964 年 10 月に桂川電機㈱の渡辺礼之、木下康一による「電子写真法」の出願がなされ、1968 年に特許公告昭43-2627として登録されていた。感光体の断面構成は同様で、キヤノンの交流コロナによる除電を直流コロナにしたものである。発明と出願は桂川の方が先であり、キヤノンの田中らが直流を交流に単に入れ替えて出願したのだとの論争が電子写真学会の場で闘わされた。キヤノンNP方式と、桂川KIP方式については当時の電子写真技術者達に饒舌な議論の場を提供した。これが彼らを多面的に刺激し特許への問題意識を高める効果もあった。
このNP方式を用いた図 4.14 の複写機NP-1100が発売されたのは、1970 年であった。B4サイズまで毎分 10枚複写できた。感光体に可視光感度の高いCdS(硫化カドミウム)の樹脂結着層を用いたので、原稿照明には15 Wの蛍光灯2本で十分であった。図 4.15 には、主要断面図を示すが、感光体ドラムの3 時の位置で画像露光同時に交流コロナ除電され、潜像は2成分磁気ブラシで現像される。NP方式の感光体表面は、頑丈な絶縁フィルムで被覆されているので当時の代表的感光体であった非晶質Se感光体、樹脂結着された酸化亜鉛感光体に比べて相当強い機械的耐久性があった。図4.1611)のようにゴム製のブレードを押し当てて、転写後に感光体表面に残るトナーをクリーニングできた。ポリウレタン弾性ゴムの板をシャープにカットしたクリーニング・ブレードは、その後多くの複写機やプリンターに用いられ、その小型、軽量化に大きく貢献した。
NP方式を駆使した普通紙複写機事業参入に成功したキヤノンは、創業社長御手洗毅による「右手にカメラ、左手に事務機」という新経営方針のもとで、複写機を中核とする事務機事業分野を開拓し企業規模を急速に拡大していった。
図 4.15 キヤノンNP-1100中央断面図10)
図 4.16 ブレードクリーニング11)
現・コニカミノルタ㈱の前身である小西六写真工業㈱は、1955 年に電子写真技術開発に着手し、1960 年にはRCAのEFを用いる複写機技術提携契約も結んでいた。しかし、同方式の開発に業界で一番先に終止符を打った。そして普通紙複写が可能な「電子写真・間接乾式」に集中した。ゼロックスの特許網を回避する様々な工夫によって、1971 年にU-bix480を発売した。RCAのEF方式では、酸化亜鉛感光紙への「直接記録」が当たり前であったが、安価で画質に優れる酸化亜鉛感光体を、「電子写真・間接乾式」に用いたのである。酸化亜鉛の結着剤樹脂、増感色素などの材料選定を行い、装置内の送風システムを工夫するなどして課題を解決した。複写速度毎分 8枚/B4、酸化亜鉛感光体マスターは、数100回の繰り返し使用に耐える耐摩耗性、耐コロナイオン(耐オゾン)性などを達成した。図 4.17にU-Bix480の外観を示す12)。前節4.2で述べた電子リコピーBS-1と同様の照明結像光学系がコロナ帯電器を伴って、静止した酸化亜鉛マスターキャリッジ上を左右に走査し、原稿の静電潜像を形成する。その後、マスターキャリッジが駆動を開始し、感光体上の潜像は現像、転写、分離の工程を経て紙上にトナー像を形成し、定着部へ搬送される。定着は非接触のオーブン定着方式が採用された。
図 4.18 にU-Bix480の中央断面図を示し、図 4.19 の上は電子写真主要部正面、下は酸化亜鉛マスターキャリッジを引き出した状態を示す。図の白紙部は、実際は色鮮やかなローズベンガル色素増感された酸化亜鉛マスターがセットされていた。これらの写真は、現コニカミノルタ社の保管機を撮影したものである12)。
図 4.17 コニカU-Bix480の外観12)
図 4.18 コニカU-Bix480中央断面図12)
図 4.19 電子写真主要部とマスターキャリッジ12)
「U-bix」という名前は「優美を尽くす」という日本語をからきている。図 4.20 の上は原稿で下がそのコピーである。市場で先行していたゼロックス914は、カスケード現像が用いられ、文字や線画は鮮明に再現されたが、ベタ黒や階調画像の再現はできず「黒猫が白猫にコピー」されると揶揄されていた。この画質は、導電性磁気ブラシ現像によって達成された12)。
図 4.20 U-Bix複写サンプル12)
比較のために図 4.21 にはカスケード現像を用いたXEROX1385という昭和 37 (1962) 年発売の手動複写機による太字の再現性を示す。原稿はペン先太さ3 mmのマーカーペンで黒々と書かれていたが、複写文字は中抜けしていて残念な結果であった13)。
酸化亜鉛マスターへの磁気ブラシ現像の適用は正解で、U-bixは画質の良さが市場では高く評価された。さらに安価な酸化亜鉛感光紙をマスターとして繰り返し利用できるので、競合機の1 /2のコピー単価を設定できた。この結果大きな事業成功をもたらし、今日に至る会社の主力事業の基盤を築いた。
図 4.21 カスケード現像での太文字再現13)
普通紙複写機の実用化で先行したゼロックスは、初期の製品にはカスケード現像を用いた。しかし後発の日本企業は、画像再現性に優れる磁気ブラシ現像を採用しそれを優位な訴求点とした。静電気理論に基づく2つの現像方式の違いは以下の通りである。カスケード現像は500μm程度のガラス球をキャリアとし、その表面に静電気的にトナーをまぶした2成分現像剤を感光体の静電潜像に小滝のように流しかけて現像する。現像剤の流れを阻害しないように通常は開放空間で現像されるので、図 4.22 の上段の電気力線が示すように、静電潜像の広面積部は電場強度が微弱で、同エッジ(縁端)部だけが強くトナーに静電気力が働き現像される14)。したがって図 4.23 の上段の原稿画像は、下段のように画像の縁端部が強調されたエッジ効果画像が得られる14)。当時の文字や線画主体の事務文書の場合は、縁端部の輪郭強調されたシャープな再現になり、背景汚れも軽減できたので先行するゼロックスは、これを利点とも位置づけ実用上は問題なしとしていた。
磁気ブラシ現像の場合は、図 4.22 の下段のように電気力線は感光層の表に出てくる。現像電極が静電潜像に対向して配置されることと静電理論的には等価なので、潜像の広面積部(ベタ部)と同エッジ部共にトナーに静電気力が働き、ほぼ一様に現像される。磁気ブラシの場合のキャリアーは、当時は100μm以上の磁性体粒子が用いられ、具体的には導電性の鉄粉、フェライト粒子などが使われた。その場合は、感光体との現像空隙は実効的にさらに狭くなり、エッジ部とベタ部の現像の一様性が一層良くなった。それによりベタ黒や、写真原稿の階調性が再現され、U-Bix480などをはじめ、その後の国産複写機の強みになっていく。
図 4.22 感光体表面上の電場形状14)
図 4.23 カスケード現像のエッジ効果像14)
ただし磁気ブラシ現像は、カスケード現像に比べて静電潜像に忠実な画像再現ができる反面、潜像電位変動に敏感で当時の制御技術では課題もあったが我が国のメーカーはこれに挑戦し問題を解決した。
RCAで発明された磁気ブラシ現像は、磁石に直接現像剤を付着させて磁気的ブラシを形成し、潜像面を摺擦して現像するものであった。昭和 35 年リコーの高松修は、磁石の外側に非磁性のスリーブ(取り巻き円筒)を設け、その表面に磁気ブラシを形成して、スリーブ上を連続的に現像剤粒子を自転させながら公転させて現像する方法を発明した15)。図 4.24 に示すこの技術は、現在に至るまで電子写真乾式複写機やプリンターのほとんど全てに用いられている国産技術であり、昭和 37 年に特許公告されている15)。図 4.25 には磁気ブラシ現像でのブラシ穂先接触部を模式的に示している16)。
図 4.24 高松の磁気ブラシ現像方法15)
図 4.25 磁気ブラシ現像模式図16)
参考・引用文献
1) | 社史編集委員会"リコー60 年技術史"㈱リコー, 東京(1996), 64p.の図を元に今井力作成, 写真はリコー沼津事業所史料館にて今井力撮影 |
2) | 筆者所蔵物から拡大複写 |
3) | 京セラドキュメントソリューションズ㈱提供三田コピスターA44カタログ等より |
4) | 社史編集委員会"リコー60 年技術史"㈱リコー, 東京(1996), pp.78-80. |
5) | R . M . Schaffert, "Electrophotography", Great Britain, Focal Press (1965), 134p. |
6) | 大嶽英宗"液体現像技術の展望"日本画像学会誌Vol.49, No.2, p.111 (2010) |
7) | 中山信行"富士ゼロックス914"日本画像学会誌Vol.58, No.1, pp.71-73 (2019) |
8) | R . M . Schaffert, "Electrophotography", Great Britain, Focal Press(1965), 129p. |
9) | Chester F. Carlson, "Electrophotography" Application April 4, 1939, USP2, 297, 691 (1942) |
10) | 日比野勝"キヤノンNP-1100"日本画像学会誌Vol.58, No.1, pp.74-76 (2019) |
11) | 田中宏(キヤノン)"帯電露光同時電子写真方式における清掃装置", 日本特許, 昭44-2034 (1969), 3p. |
12) | 服部好弘"コニカU-Bix480"日本画像学会誌Vol.58, No.1, pp.77-79 (2019), 外観・内部機構の写真は服部好弘、近藤芳昭、山﨑弘の撮影と提供 |
13) | カールソン方式発明80周年記念研究会, 富士ゼロックス技術歴史館でのXEROX1385の実演サンプル提供より(2018.10.22) |
14) | R.M.Schaffert, "Electrophotography", Great Britain, Focal Press(1965), pp.28, 53 |
15) | 高松修(理研光学工業:現リコー)"静電写真現像方法"日本特許, 昭37-14798 (1962), 2p. |
16) | Merlin Scharfe "Electrophotography Principlesand Optimization" England, ResearchStudies Press(1984), 57p. |
17) | Chester F. Carlson Award sponsored by Xerox Corporation, Society for Imaging Scienceand Technology , Springfield , VA. USA |
18) | Chester F. Carlson, "Electrophotographic Apparatus "Application November 16, 1940USP2, 357, 809 (1944), 2p.Fig.2 |
19) | キヤノン企画本部70 年史編纂室 "CANONHISTORICALSKETCH1937-2007", キヤノン㈱, 東京(2008), pp.115-119. |
カールソン方式
カールソンが発明し、電子写真の基本特許となった「電子写真・間接乾式」は、図 3.4 から良く解る。さらに初学者のために、6工程から成るカールソン方式での電荷、イオンなどの振舞いを以下に説明する。
①帯電: | 金属細線などの強電場で空気を電離させ、発生した正または負のコロナイオンを用いて一様に帯電させる。感光体は300 V~1 kVに帯電され、高いエネルギー状態の感光性を与えられる。図は正帯電の例を示している。 |
②露光: | 画像明部の感光層光吸収域で発生した電子とホールは層内電場によって移動、明部の静電荷は消失し、静電潜像を形成する。 |
③現像: | 静電潜像の静電気力でトナーが潜像に吸着する。図は2成分現像剤で負帯電したトナーによる例が示されている。 |
④転写: | 感光層面のトナー像に用紙を重ねて用紙背面から正イオンを与え静電気力によってトナー像を紙上に転写する。 |
⑤定着: | 普通のトナーは熱可塑性樹脂バインダーで構成されていて、用紙とともに加熱加圧するとトナー画像が紙上に定着される。 |
⑥クリーニング: | 次の工程に備えて表面電荷は、光と除電イオンで初期化され、弾性体ブレードなどで残留トナーは払拭される。 |
下図は、カールソンが1940 年に出願した複写機の明細書面図であるが、80 年を経た今も複写機の基本的な構成要素は同じである。(図中の説明は筆者が追記した)この分野に携わる技術者には、彼が複写機の実用化開発を熱望し本気で計画していたことが解る。しかしIBMを含む、当時の全ての大企業にカールソン方式の事業化は断られ、成就までに約20 年を要したのであった。
キヤノンの複写機事業への進出
キヤノンの複写機事業進出の頃、我が国の高度成長期にあって複写機の新技術開発に挑戦し続けた忘れられない技術者の姿があった。田中宏(1932-2021)は、大学卒業後、写真感光材料メーカーのオリエンタル写真工業で、RCA技術導入してエレクトロファックス方式の複写機開発に取り組んでいたが、会社が業績不振に陥り複写機開発を中止した。キヤノンが複写機開発を進めていて未だに商品化できていない事を知った田中は1962 年にキヤノンを訪問し、「普通紙複写機をつくってみせます」と大見得を切った19)。
ゼロックスが商品化したカールソン特許9)を侵害しない独自の電子写真研究開発に携わっていた筆者は、当時の田中の頭の中には、見得を切るような具体的なアイデアはなかったと想像する。しかし田中の退路を断った「電子写真・間接乾式」普通紙複写機の具体化への強い思いが、ここには開示できない或る好機が訪れた時、田中は"AC"という幸運の女神の前髪を掴んだのだった。実験室に出入りしていた特許課の丸島儀一を巻き込んでカールソン特許とは異なる、NP方式と呼ぶ新電子写真プロセスの特許請求範囲を成立させた。その後のキヤノンの電子写真技術は、NP方式に於いて特許出願されることが多く、特許請求範囲が限定され権利化は容易となった。
しかしながら、NP方式はカールソン方式に比べるとプロセスが複雑で感光体コストも高く、第6章に述べるように、キヤノンもカールソン方式に収束していくのである。カールソン方式を否定するNP方式を発明し複写機を商品化した田中は、電子写真技術への貢献で1994 年にCarlsonAward17)を受賞したのは感慨深いものがある。下の写真は、1968 年 4 月 10 日、東京・大手町の経団連会館で「第三の電子写真方式キヤノンNPシステム」の原理発表が行われた。キヤノン創業者の御手洗毅は年内発売の意向を表明し、発表後わずか1週間で低迷気味であったキヤノンの株価が50%も上昇するほどNPシステムは大きな期待をもって迎えられたが発売までには更に2 年を要した19)。
経団連会館で開いたキヤノンNPシステム原理発表会実演を見守る山路敬三(右から4 人目)と田中宏(同3 人目)19)
我が国の複写機メーカーは、1970 年の前半には、各社の境遇や事情に違いはあっても、社内外より有望な事業と認められてそれぞれの道を走り出す。
米国ゼロックスの初期の頃の特許は出願から20 年が経ち、権利の存続期間を過ぎて自由技術となり、表面的には特許を気にしないで使えるものになりつつあった。しかし単なる物まねでは、ゼロックスの後塵を拝することになるという経営者、技術者も多く、新技術を生み出すための活発な研究開発活動が展開されていた。この昭和 50 年代(1975〜1985)の複写機事業に関係する人々の考え方、技術戦略には相当の違いがある。筆者を含め、団塊の世代が企業に入り実力を発揮しだす時期でもあり、振り返ると大変感慨深いものがある。
電子写真・間接乾式であるカールソン方式の基本特許はすでに期限切れで失効していてもゼロックス社は特許戦略にて改良特許、周辺特許を幾重にも出願し、新規参入者には立ちはだかる巨人のような存在であった。
我が国の複写機製造業は、RCAのEF(エレクトロファックス)方式を進化させて従来複写機にない特徴で顧客要求を満たそうとするもの、独自技術でゼロックス特許網を回避しようとするもの、カールソン方式の特許失効した自由技術を基に独自技術を付加して弱点を補完することで新しい価値を生み出そうとするものに分かれた。
ミノルタ(現・コニカミノルタ)㈱は、1965 年にMinoltafax41という酸化亜鉛紙を用いるEF方式(電子写真・直接湿式)の複写機を出して高画質、高信頼の市場での一定の評価を受けていた。しかし酸化亜鉛紙は重く、筆記制約があり、添加増感色素のため灰白色であるなど、「このままでは満足できないという市場からの強い要請があった。それでも普通紙複写機の製品化には技術的に未熟と言わざるを得ない状況であった。潜像転写方式は、EF方式のマシンに感光体を加えるだけ程度のシンプルさで消耗品ビジネスを維持しながら、画質ではゼロックス、EFに明確な差をつけられることがわかった。潜像転写方式の要求にこたえられる感光体の内製化の準備が進んでいたことと、本方式の用紙開発に製紙会社の全面的な協力が得られたことが事業化を進める助けになった」と開発リーダーを務めた田中晋は、電子写真プロセス担当の情野國城と共に当時を振り返る。
潜像転写方式と呼ばれ、電子写真感光体を比較的高い1, 000 V程度の表面電位に帯電させ、通常法で原稿露光して静電潜像を形成する。図 5.1 のように感光体と静電記録紙層を接近させると、大気の絶縁破壊現象を定めたパッシェンの曲線(Paschencurve)に従って感光体表面の潜像電荷は静電記録紙上に転移する。静電記録紙は酸化亜鉛や色素は含まれていない樹脂誘電層塗工紙なので、軽くて白く普通紙に近い感触であった。
図 5.1 順次潜像転写プロセス模式図1)
ミノルタはこのEG(Electrographic System)と名付けたプロセスを用いた複写機EG101を1974 年に商品化した1)。図 5.2 に示すように、感光体ドラムは、単に潜像形成にのみ用いられるので小径化できて、かつドラム周りは現像剤が関与しないのでクリーンである。現像には液体現像剤が用いられキャリア液の絞りローラー、ヒーター付きの定着ローラーが配置された手抜きのない設計であった。
潜像転写方式はカールソンもその現象に気づき1938 年に特許出願していたし、後にウォールカップ(Lewis E. Walkup)によりあらためてTESI(TransferofElectro-StaticImage)として提案され1953 年に特許出願2)されていた公知の自由技術であった。
しかし汎用の複写機に応用するには実用上の難しい課題があった。商品化にはカールソン方式に比べて高絶縁耐圧の感光体と高効率現像方式の開発が求められた。感光体静電潜像の電位が高過ぎると異常な潜像転写が起き、蜂の巣状、鱗状の模様が出て画質が劣化した。また潜像電位が低過ぎても画像濃度が不十分となるなど難題を抱えた。しかしミノルタが得意とするきめ細かい技術開発により、プロセスを洗練させ市場要求に応えたのであった。
図 5.2 MinoltaEG101複写機主要部1)
三田工業(現・京セラドキュメントソリューションズ)㈱もEF方式(電子写真・直接湿式)の複写機、電子コピスター211を1969 年に発売していた。前記のミノルタの事情とはやや違うが、それまでの液体現像を乾式の導電性磁性1成分現像に変えて安定性、画像コントラストを向上させた。導電性磁性1成分現像は、米国スリーエム(Minnesota Mining&Manufacturing Company, 現・3M Company)のロバート・ネルソン(Robert B. Nelson)による1968 年の発明で1972 年に米国特許取得したUSP3, 639, 245である。同社は、自社でもこの現像方式の複写機を製造販売したが、他のメーカーに積極的にライセンスを与える戦略をとった。図 5.3 に導電性磁性1成分トナーを用いる現像メカニズム3)を示す。(図中の説明は筆者が追記した)
図 5.3 導電性磁性1成分現像のメカニズム3)
感光体の板は右から左へ移動する。静電潜像は正極性なので、現像領域で近接する金属スリーブ面には、静電誘導で図中28の負電荷が誘導される。比較的導電性の磁性トナーが使われ、磁気的に形成されたトナー粒子鎖を通して鎖先端のトナーへ負電荷が移動した時に静電気力が最大となり磁力に打ち勝ってトナーは現像される。そのあと感光体表面の正の潜像電荷を一部受け取ってトナー内部は図中30のように正負電荷が局在する状態で落ち着く。2成分現像剤は、トナーはキャリアーとの摩擦帯電により荷電されるので、当時は温湿度の影響を受けやすく、トナーの濃度も制御しなければならなかった。さらに繰り返し使用によるキャリアー表面の摩擦帯電性の劣化や表面抵抗変化が現像能力の変化を起こしたりした。
導電性磁性1成分トナーを利用すればこのような課題から解放された。三田工業は、前述の3Mの導電性磁性1成分現像特許を回避し、小型で低コストの安定した複写機、図 5.4 のコピスター900-D4)を完成し1976 年に全世界への発売に至った。この複写機は、図 5.5 の断面のように圧力定着方式であり、ウォームアップ不要で立ち上がりが早く、新規開発の薄く軽い感光紙により普通紙に近い仕上がり感、磁性1成分の特徴である高画像濃度とともに安定性が向上した。¥498, 000の価格で販売され全世界で爆発的に販売量を増加することができた 4)。酸化亜鉛感光紙に現像されたトナーは、圧力によって感光紙樹脂バインダー層へ比較的容易に埋没するので圧力定着との相性も良かった。
図 5.4 三田コピスター900-Dカバー内部4)
図 5.5 三田コピスター 900-D中央断面 4)
リコーは、酸化亜鉛感光紙を用いる湿式現像 BSシリーズの複写機が成功し海外販売も好調であったので普通紙複写機つまり電子写真・間接方式への移行が遅れた。その中でも研究開発部門は、カールソン方式を含めて複数のプロジェクトを推進していた。
ゼロックス特許を回避した Se(セレン)感光体について研究開発段階から量産まで導いた遠藤勝利の功績は極めて大きい。当時の電子写真用感光体は、温湿度など環境依存性が大きく、帯電疲労や前露光疲労もあり、系統的実験での安定したデータを得るのに苦労した。筆者も当時良好な実験結果を得た場合、「再現性はあるのか?」と先輩から良く問われたものであった。そのような状況にあって、繰り返し特性が安定した Se感光体が使えるのは、電子写真プロセス開発の場では大きな強みであった。
リコーは普通紙複写でキヤノン、小西六に先行されていたこともあり、既に開発ができていた Se感光体ドラムを用いるカールソン方式にて複写機設計を開始した。2成分乾式磁気ブラシ現像、加熱加圧ローラー定着を採用した、複写速度 15枚/B4のリコー PPC900を1972 年に急いで発売した。しかし、定着ローラーへの用紙巻き付きを防ぐ離型剤としてシリコーンオイル塗布するというゼロックス特許を回避するのに苦労した。発売予定日が迫り、判断を誤りオイル塗布機構を省略したため加熱加圧ローラー定着での用紙巻き付きトラブルを起こした。リコーは、創業以来複写機事業の経験は豊富で市場対応力はあり、何とかサービスマン対応で稼働を続けるような状態ではあった。
リコーでは乾式2成分現像を用いる PPC900商品開発と並んで、液体現像を用いる電子写真・間接湿式方式の国際プロジェクトが走っていた。第3章で述べた、オーストラリア連邦政府機関DSL(Defence Standards Laboratories)で発明された、電子写真液体現像技術のさらなる応用展開を目指し2つの民間研究所が設立されていた。そのひとつは、AROA(AppliedResearch ofAustralia Pty Ltd.)もうひとつは RLA(Research Labolatories of Australia Pty Ltd.)であった。AROA発明の「Tacky Toner」と呼んだ粘着性トナーは、現像後の感光体表面から紙質を選ばず印刷インキのように粘着転写される特徴があった。しかしトナー粘度の温度依存性のため低温で転写不良が起こり、固化したトナー粒子の再分散にも深刻な課題があった。国際プロジェクトの基本構想に対しリコーのプロセス技術者、トナー技術者は疑問を持ち Tacky Tonerを断念した。奥野善次郎のトナー開発部門で木村嗣男は粒径大の 10μmの粘着トナーを高分散性の微粒トナーで包んだトナーを試作した。その分散性は良く、高温での画像形成部材への粘着や固着もなかった。感光体潜像に現像されたトナー準凝集状態でも感光体表面に粘着しない。そして静電的に用紙に転写され自己定着性も有する新規な液体トナーが発明されたのである。
こうして 1975 年に誕生したのが、図 5.6 のリコーDT1200である。図 5.7 の同機液体現像部の右上から分かるように、キャリアー液のアイソパー H(ISOPARH)7)は現像後ドラム表面に残る。余分のキャリアー液を絞りとるスクイズローラー(Squeeze Roller)が Se感光体ドラムに 0.07 mmの狭いギャップで配置され、反時計方向に高速回転して液を絞り取る仕組みを取り入れた。キヤノンは、現像後キャリアー液膜に全面コロナ帯電を施し、液膜に作用する静電的圧力を用いたチャージ・スクイズを採用していた。両者を比較するとスクイズローラー方式が液膜を絞る効率は相当に高く、トナー転写時の用紙へのキャリア液の浸み込みは極少化できた。図5.8に外観を示す卓上型のリコー DT1200は、1975 年に¥750, 000で販売され半年で 25, 000台の記録を達成し普通紙複写機でもリコーは国内で販売台数シェア1位となった。
図 5.6 リコー DT1200 の中央断面 5)
図 5.7 DT1200 の液体現像部 6)
キヤノンも、同社初の普通紙複写機 NP-1100の発売前に液体現像方式の複写機開発を進めていた。田中宏の下で 1967 年入社の斉藤敬がまとめ役となって進められた。前述の RLAが開発したファウンテン現像法を採用、CdSドラム感光体下方に現像電極皿を配し現像液を泉のように湧出供給させるものである。図 5.9 8)に断面構成を示す。RLAと共同で進めた液体トナーの開発と普通紙に近い用紙の開発に最も苦労した。キヤノンは「液乾式」と名付けたNP-L7を 1972 年に¥688, 000という低価格で発売し名器と賞賛される評価を得ていった図 5.10 9)。シート原稿で A4毎分 30枚の速度、最大 A3サイズが複写できた。最初の NP-1100では上手く行かず、この機種でキヤノンは複写機事業を軌道に乗せたのであった。
図 5.8 リコー DT1200外観 5)
図 5.9 キヤノン NP-L7の断面構成 8)
リコーは DT1200、キヤノンは NP-L7、両社は間接湿式方式で成功しゼロックスの間接乾式方式の牙城を切り崩していったのである。液体トナー由来の高解像、良好な稼働信頼性のアドバンテージ等はあったものの、感光体からの静電的トナー転写条件に制約があった。湿式トナーの転写効率を良くするには表面が平滑な用紙が求められ、表面の粗い用紙では転写の欠落が起きた。両社共にこのことが、後に乾式間接方式のカールソン法への回帰につながっていくのである。
図 5.10 キヤノン NP-L7製品パンフレット 9)
この当時、複写機開発ではリコーとキヤノンは熾烈な競争を展開していた。両社は、大田区の中馬込と下丸子にありわずか4 kmの距離であった。両社が、遠く 6, 000 kmも離れた南オーストラリア州アデレード近郊の AROA、RLAとそれぞれ独立に液体トナーの共同開発をやっていたのである。同じ目的を追求する人達にとって「It's a small world」ということであろう。
日本国産の複写機は欧米にも輸出されてはいたが米国ゼロックスは、創業者として圧倒的な総合力を持ち技術と市場を支配していた。しかし同社の基本特許が切れる頃には、IBM、Kodakも自社特徴技術を組み込んだ「電子写真・間接乾式」で複写機事業に参入し、より高速で大量の文書複写業務に応える製品を目指していた。
高速化のためには、当時の日本メーカーの殆どが採用したスリット露光方式には限界があったので、フラッシュ露光方式を採用した。スリット露光方式は、相当の質量の原稿台を移動させるか、または照明光源、レンズ、複数のミラーで構成される結像光学系を加速往復運動させる必要がある。そのため急加速運動による原稿照明ハロゲンランプのフィラメント切れ、機械振動、騒音、照明光源の発熱などの問題も含め事務機向けには上手く設計できなかった。米国ゼロックスは、Seベルト感光体を開発し、同ベルトの平面部にフラッシュ露光するように設計した。1974 年に発売された図 5.11 に示すXEROX9200は複写速度は毎分 120枚で業界を驚かせた。図中女性が右手を添えた ADH(Automatic Document Handler)は 50枚までの原稿を自動操作し、複数原稿で多部数のコピーは、ページ順に自動丁合されて女性奥の装置上下のビン・モジュール(bin module)に順序正しく納められた。図 5.12 は XEROX9200内部構成模式図 10)であり、図中番号で原稿1は2のADHで操作され3の高強度フラッシュランプで照明される。ミラー4、レンズ5、ミラー 6で Se感光体ベルト(金属ベルトに Se系合金を真空蒸着で非晶質 a-Seの成膜をした)7の平面部に原稿像を露光する。磁気ブラシ現像はフェライトキャリアーを採用し9で4段現像された。トナー像は、転写部 11で用紙に転写され、加熱加圧ローラー 12で用紙に融着される。その後、コピー受けトレー 13に出力される。複数原稿で多部数のコピーの場合は、上述の通り 25ビン・モジュールの上下 15b、15aにページ順に自動丁合された。
図 5.11 XEROX9200外観と原稿操作状況 10)
XEROX9200は、欧州向けにはイングランド南西部のミッチェルディーン(Mitcheldean, UK)でも組み立てられ、最新鋭の超高速フルシステム複写機として自慢の製品であった。図5.11の Sylvia Attwellは、 1 人で同事業所の生産技術文書数 100, 000枚の大量コピーを4週間でとって処理することができたと事業所内広報紙に記されている 10)。ゼロックスは、製品はレンタルのみであり売り切りはなかったが、仮に価格をつければ$50, 000、当時為替レート$1=¥300で¥15, 000, 000は軽く超えたと思われる。この想定価格は卓上型国産複写機の 20倍以上であり顧客層は、官庁、大企業のコピーセンター、軽印刷会社などであった。
筆者は東京晴海のビジネスショーにてこの製品展示を見て圧倒され国産メーカーの技術開発とシステム志向の遅れを知らされた。さらに高速複写機を世界市場に投入して、群がる日本勢を振り切ろうとするゼロックスの強い意志も感じた。しかしながら複写機業界に君臨していたゼロックスは、後になって明らかになるがこの頃 1970 年代半ばが最高の時期であったのである。
IBM(International Business Machines Corporation)は、ゼロックスとは事業内容は異なるが、多国籍企業として汎用コンピューターで不動の地位を確立していたが、1970 年に複写機事業にも参入した。コンピュータからのデータ出力、帳票出力のため普通紙プリンターは避けて通れないものと判断し、まずは複写機を手がけていた。当時のIBMはソフトウエア、半導体、電子、電気、機械、化学、物理など凡ゆる分野のトップクラスの科学技術者を擁していた。複写機の開発も最初の製品からわずか6 年で完成の域に達したのである。1976 年に創業者ゼロックスを脅かすほどの高度な仕様の図 5.13 に示す複写機 SeriesⅢを$25, 000USD、当時為替レート$1=¥300で¥7, 500, 000で発売した。
図 5.12 XEROX 9200内部構成模式図 10)
図 5.13 IBM seriesⅢ中央断面図 11)
急加速運動による原稿照明ハロゲンランプ・フィラメント切れなどゼロックスが断念した難題も解決した。固定されたハロゲンランプ点光源からの光輻射を 2枚の自由曲面ミラーでスリット状の光束に整えて原稿をスキャンする革新的な照明系を開発した。IBMは、お家芸のコンピュータ・シミュレーションを駆使して自由曲面ミラーを設計・加工することも簡単にできた。それでも最小質量のプラスチック・ミラーは加速往復運動するので正味の原稿スキャン時間は 0.5 sec程度となってしまう。毎分 75枚の複写速度を達成するには従来の感光体よりも 2倍の感度を必要とした。
そのため自社開発してきた電子写真用の有機半導体 OPC(Organic Photoconductor)の研究開発を進め、次の画期的なものを搭載した。
OPCの層構成は、機能分離型の積層構成であり、図 5.14 の上のように下層の光電荷発生材料にアゾ顔料(azo pigment)を 1μm以下に塗布し CGL(Charge Generation Layer)としOPC表面を負帯電して用いた 12)。上層の電荷輸送層 CTL(Charge Transport Layer)には、CGLで発生するホールを OPC表面まで輸送するピラゾリン(pyrazoline)を主要結着剤樹脂ポリカーボネートに分散溶解し 20μm程度の膜厚に塗布していた。OPC全層の支持体には片面アルミニウム蒸着した 75μm厚ポリエステルフィルムが用いられた。これを巻き取ってドラムの中に2組の OPCロールフィルムを装填し、図 5.13 の下部中央のドラム内部機構のように必要に応じて自動的に巻き上げて更新する形態をとった。OPC本来の耐刷枚数は多くはなく約10, 000枚程度であったが、サービスマンによる頻繁な感光体交換をなくすことができた。
電子写真複写機は、コンピューターと違って5 kV以上の高圧電源が多く使われ、用紙からの静電気も画像形成プロセスの宿命から多発する。IBMは、それらの静電ノイズ耐性の複写機専用仕様のIC、LSIを開発し実装したと胸を張っていた。磁気ブラシ現像用のキャリアー表面にはフッ素樹脂コートがなされ長寿命が期待された。静電転写部からの用紙分離は、従来技術とは異なるベルヌーイの定理を用いるトナーを飛散させない洗練された方式であった。加熱加圧ローラー定着もトナー離型材としてゼロックスが利用していたシリコーンオイルも不要であった。
図 5.14 積層型 OPCと単層 OPC断面模式図 12)
高度で贅沢な技術を惜しまず投入したにもかかわらず市場での稼働品質は不評であった。隠れた重大な設計・生産のミスもあったかもしれないが、複写機事業は IBMの企業体質には合わなかったのだろう。ほぼ同時期に電子写真・間接乾式を利用したレーザービームプリンター(Laser BeamPrinter)IBM Model 3800を発売し毎分 215枚のプリント速度を達成した。この製品は市場での稼働品質は良く、IBMは複写機よりもプリンターの方が開発の主目的であったのだろう。
IBMは、複写機・プリンターの中核技術である OPCの分野で我が国の複写機メーカー、素材メーカーに多大な影響を与えた。特にリコー、三菱化成(現・三菱ケミカル)、キヤノンなどは、IBMが開発した機能分離型の OPCの設計思想に共感して合理的に開発を進めることができた。
構想が固まりその方向に解があると確信できた時に、迷わず仕事に邁進する姿は当時の日本的スタイルだったのだろう。露光波長に合わせたアゾ顔料、フタロシアニン(phthalocyanine)顔料をはじめ量子効率の高い CGL材料が合成された。また CGLからのホール注入効率が良く、移動度の高い CTL材料を電子供与性の含窒素化合物などから合成した。そして遂には国産OPCの性能を世界一水準までに高めたのであった。
このコダック(Eastman Kodak Company)の複写機は前述 IBM SeriesⅢと複写速度は同程度の毎分 70枚であるが、ゼロックスの構想に同じでベルト感光体を用いてフラッシュ露光している。ただし感光体は同社の高い有機合成技術を生かした長寿命の単層 OPCであり図 5.14 の下の OPC断面模式図に対応する。
図 5.15 に示すのがEktaPrint 150の中央断面であり、図中の説明は筆者が追記した。三角形に張られた感光体ベルトは時計方向に回る。現像は写真画質にこだわった同社ならではのものであった。スポンジ状の導電性キャリアを用いた2成分磁気ブラシ現像で写真再現もよかった。定着後のトナー面は普通紙表面と一致させた艶消しで、読みやすく高品位のコピー画像が特徴であった。IBMと違って、トナー転写部の用紙の分離は感光体を駆動するローラー径を小さくして、曲率によって分離している。
図 5.15 Kodak EktaPrint 150中央断面 13)
ゼロックスの開発製造の中心はウェブスター(Webster, NY)であり、コダックの本拠地のロチェスター(Rochester, NY)から東へ 15 kmの隣町である。そのためゼロックスの技術者など相当数がEktaPrintシリーズ複写機開発のために転職したと言われる。
また IBMが販売し市場で稼働していた複写機は、後にコダックが全て引き受けて保守サービスも行なった。銀塩フイルム事業の売り上げに陰りが出る時期にも、複写機・プリンター事業はコダックの経営をある程度支え続けた。しかし、カメラをはじめ全ての画像、映像システムのデジタル化の大津波により、基盤の銀塩事業が終息、2012 年米国連邦倒産法第 11章の適用を申請し上場廃止になるのである。
このことは富士フイルムの近年の銀塩依存事業構造からの脱却にあたり富士ゼロックスの複写機・プリンター関連事業の全てを取り込み融合させたことと構想は一致する部分もある。しかしコダックと違い事業構造の転換に社長のリーダーシップで改革断行した富士フイルムの経営は今も健全である。企業の存続に関する経営者の責任意識をはじめ日米の考え方の違いは大きい。
参考・引用文献
1) | 情野國城ほか"潜像転写型複写方式"電子写真学会誌, Vol. 17, No. 3, p.38 (1979) |
2) | Lewis E. Walkup(Haloid Company), "Transfer of Electrostatic Charge Pattern", App.July, 16, 1953, USP2, 833, 648 (1958) |
3) | Arthur R. Kotz(3M Co. Ltd.)"Electrographic Development Process", Filed, Jan. 2, 1974,USP3, 909, 258 (1975)の Fig. 4 |
4) | 京セラドキュメントソリューションズ㈱提供三田コピスター 900-Dカタログ等より |
5) | 社史編集委員会"リコー 60 年技術史"㈱リコー, 東京(1996), 114p. |
6) | 大嶽英宗"液体現像技術の展望"日本画像学会誌, Vol. 49, No. 2, p.111 (2010) |
7) | エクソンモービル社のイソパラフィン系溶剤で高純度の炭化水素系溶剤の商品名である |
8) | キヤノン史編集委員会"キヤノン史技術と製品の 50 年[別冊]", キヤノン㈱, 東京(1988), 71p. |
9) | キヤノン企画本部 70 年史編纂室"CANON HISTORICAL SKETCH 1937-2007", キヤノン㈱, 東京(2008),122p. |
10) | Rank Xerox"VISION The House Magazine of Rank Xerox Mitcheldean" UK, Rank XeroxDecember No. 115 (1975)pp. 1, 4. |
11) | J. C. Andrew et al.(IBM)"XEROGRAPHIC CHARGING", Filed: Sep 4, 1979, USP4, 278, 342 (1981)の Fig. 1と記憶を元に今井力作成 |
12) | 長山智男"電子写真感光体−無機から有機材料を用いた機能分離型まで−"日本画像学会誌, Vol. 52, No. 2, p.118 (2013) |
13) | R. M. Sterrett(Eastman Kodak)"Apparatus for Producing Sets of Collated Copies", Filed,May 3, 1979, USP4, 248, 525 (1981)の Fig. 1 |
昭和 50 年代(1975〜 1985)は、発明・発見から誘導されて技術開発を進めた過去の 10 年に比べて、科学的、系統的、そして品質管理手法が展開された時代でもあった。それにより複写機メーカーは、フルスケールとまではいかないがある程度の製品の品揃えが可能になった。
我が国の複写機産業は相当の部分を欧米先進国への輸出で稼ぐ事業構造を持っていた。主要通貨の変動相場への移行、石油危機、米国のドル防衛策などにより為替相場が急激に変動した。円高基調の時代に入った日本各社の複写機事業は、製造コストの削減とともに、海外生産シフト、製品価格に見合う高付加価値の魅力ある商品開発を迫られた。
一方米国ゼロックスは、売り上げ記録を更新し、高収益をあげていた。しかし 1975 年米連邦取引委員会 FTC(Federal Trade Commission)からの独占禁止法違反訴訟判決により競合他社に、特許をライセンス供与しなければならなくなった。その時点で複写機企業は、王者ゼロックスの特許に対して全面回避しなくても良くなったのである。それでも国産複写機メーカーの経営陣は、ゼロックス特許技術の使用には消極的で、研究開発者をハングリーな状態に置き、ゼロックスに無い革新的な技術を生むように鼓舞していた。
円高基調にあって輸出依存度の高い企業は、当座の利益率を落としながらも独自の戦略を持って事業展開していた。1979 年に出版された「ジャパン・アズ・ナンバーワン−アメリカへの教訓」1)にも記されている通り、日本的経営が高く評価されていた。具体的には、その高い経済成長の基盤は、日本人の学習意欲と読書習慣であり、新聞の発行部数の多さなど含め米国人の2倍も学んでいると賞賛されていた。
複写機技術の研究開発に携わる企業人は、このような時代にあって相応の自信と誇りを持ちながら科学する精神を尊重した。その一つは、複写機の画像形成技術に用いられる電子写真関係の学会活動への参加であった。すでに 1958 年には電子写真懇話会が発足していたが、図 6.1 は、SPSE(The Society of Photographic ScientistsandEngineers)が 1981 年ベネチアで開催した第1回の NIP(Non-Impact Printing) 国際会議のポスターである 2)。下部の拡大部に当時の日本の電子写真学会の大御所であった井上英一、坂田俊文の存在が既にあり、フィリップス(PhilipsGmbH)、アグファ(Agfa-Gevaert, N.V.)、IBM、ゼロックスなどの欧米大企業の中で会議をリードしていたことがわかる。
図 6.1 SPSE/NIP1国際会議のポスター 2)
リコーの電子写真開発で活躍した今井力は、次のように振り返る 3)。「国内の企業が、海外の技術を参考に、半ば手探りの状態で電子写真に取組んでいた時期、1965 年、R. M. Schaffertによる"Electrophoto–graphy"、J. Dessauer& H. Clarkによる"Xerography and Related Processes"が発刊された。また、日本では、1959 年に井上英一先生が、共立出版社より現代エレクトロニクス選書 61「電子写真技術」1967 年に吉田洪二先生が日刊工業新聞社より「電子写真とその装置」を出されている。それらが, 電子写真技術者のバイブルとなり、大いに企業の研究開発をも促したと思われる。」
複写機に用いられる電子写真技術は大学で学んだ知識では足りず、企業人はこのような「教科書」を読んで研究開発の業務に邁進した。成果は、特許、論文で公開され、製品技術に組み込まれた。素材、部品提供企業も含め企業間で研究開発課題や成果を共有し評価の尺度を合わせるには、共通の表現様式で用語も統一するのが便利であった。電子写真学会(現・日本画像学会)をはじめ、学会の果たした役割は大きかった。
電子写真の静電潜像を現像するには、乾式の場合はトナーが使われる。熱可塑性の樹脂にカーボンブラックなどの顔料を極性制御剤とともに分散混錬、造粒後に 10〜 30 nm程度の無機微粒子を外添してまぶしている。トナーの粒子径は 10μm以上であったが、近年は画質向上のため5μm内外となっている。図 6.2 の左に示すように現像部で一定バイアス電圧の下で、トナーは潜像が形成する電場に応じた静電気力を受けて感光体表面に移動して現像が完了する。しかし実際作用する力は複雑で、静電潜像を狙い通り正しく現像できない場合が多い。トナー1 個はおよそ0.1 ng(ナノグラム)程度で、電荷は 1 fC(フェムトクーロン)なので、トナーの比電荷 q/m = 10μ(C/g)の程度であり極めて微小な物理量となる。このことが電子写真の本来持っている宿命的な脆弱さにつながる。
図 6.2 の右には比較のため電子や水素イオンの q/mを示す。トナーのそれに比べて、それぞれ 10兆倍、 100億倍(1013、1010))の大きさである。電子工学や化学の指導原理が相応の大きな物理量に基づいているのに比べ、電子写真は元来、非常に弱い物理量に基づいて基本的画像形成プロセスが進行する。そのため外乱に非常に影響を受けやすい宿命を持っていることにまず理解を深める必要があったのである。
図 6.2 トナーと電子の物理量の違い
筆者は、電子写真の研究開発に携わり始めた頃、トナーの比電荷 q/mを測定する装置を検討し、計測に成功した時の記憶が今も蘇る。図 6.3 の模式図のような単純な装置を用意する。開口部直径が25 mmの円錐形の金属容器の上下面に#600メッシュの金網を着脱自在に装着できるようにする。このメッシュ付きの金属容器はファラデー・ケージ(Faradaycage)として働く。計測すべき2成分現像剤をケージに投入、化学天秤で秤量、高インピーダンスの電位計をつないでケージの電位をモニターする。円錐上部から N2ガスを噴射してトナーを吹き飛ばした後秤量する。低帯電トナーと高帯電トナーではキャリアーとの静電付着力は異なり、高帯電トナーを離脱させる力は大きくなる。ガス圧を低い方から高いほうへ変化させて行くとトナー帯電量の分布状態もわかったし、ケージ電位の計測から逆帯電トナーの存在も推定できた。
このように本質的な物理量が計測、評価できるようになって、トナー開発が系統的に行われるようになった。
図 6.3 トナーの比電荷 q/mの測定法
第5章の 5.1.2にて、電子写真・直接乾式である磁性1成分現像を解説した。磁性トナーを用いる乾式1成分現像は小型軽量化が可能で、エッジ効果も少なくこれを、感光体から間接方式で普通紙にトナー転写しようという考え方がごく自然に生まれた。我が国の複写機メーカーは小型、低コストでゼロックスの牙城を切り崩そうとしていたので特に真剣に1成分現像に取り組んだ。しかし、従来の磁性1成分現像は、その現像メカニズムから導電性トナーでなければならず、用紙の電気抵抗が下がる高湿雰囲気では転写効率が激減し実用にならなかった。そこで完全絶縁性トナーによる新規な1成分現像の開発が各社各様に行われていた。
キヤノンは、「ジャンピング現像」と自ら名付けた新規な1成分現像を発明し、1979 年に NP-200Jという汎用複写機を発売した。原稿台移動方式で、A3サイズまで複写でき世界最小サイズの卓上型で、価格¥598, 000であった。しかし全米各地にも販売され、地域的に日本では経験しないレベルの低湿環境でのゴースト画像発生の品質クレームに悩まされた。さらには1成分現像技術で先行した米国企業より特許侵害の警告を受けてもいた。
このような事情の中、1981 年当時キヤノンのジャンピング現像開発リーダーの高橋通は、電子写真学会へ同現像機構に関する投稿をしている 4)。特許出願にのみ頼るのではなく、我が国の電子写真学会のオフィシャルな論文で現像機構を解析している。従来の導電性磁性1成分現像とは違う、新しい現像技術であると科学的アプローチで論証したところに普遍的な価値がある。何故ならば「論文を読むなら特許を読め、レポートを書くなら特許を書け」と技術の総帥を務めた鈴川溥の言葉が研究・開発部門では支配的であったからである。
図 6.4 の上段はジャンピング現像器の構成概略断面図を示している。回転する非磁性体のスリーブの中に磁気ローラーが固定されている。感光体ドラムに対向する現像領域で、スリーブは同方向で等速で回転する。図 6.4 下段は、スリーブ上トナー層の厚みを規制するブレード周辺の拡大模式図であり、磁性体ブレード先端とスリーブ面のギャップは 240μmである。磁性高抵抗のトナーはスリーブとの摩擦で負に弱く帯電し、スリーブ面の鏡像正電荷の鏡像力と磁力によりスリーブに均一付着して搬送される。この時のトナー層厚は 50μmの薄層となる。
図 6.4 ジャンピング現像器とブレード部分拡大 4)
トナーの処方は、ポリスチレン樹脂 50 部、マグネタイト30 部、負電荷制御剤1 部で、抵抗率 1015Ω・cm、平均粒径9μmであった。図 6.5 は、トナーにジャンピング運動を起こさせるACバイアスの作用を示す。現像領域での詳細なトナーの振る舞いの説明は省略するが、トナーは ACバイアスで往復運動を繰り返しながら帯電量を充足し、画像部には付着、非画像部に付着しないので静電潜像の現像が完了する。さらにACの周波数を最適化することで好ましい現像ガンマ(gamma)特性も得られた。
トナー薄層は現像位置の図 6.4 磁極 S1にて微小磁気ブラシ形成し 100μmの層厚になる。スリーブと感光体ドラムの間隔は 300μmであり、この空隙でトナーは AC電場により往復運動する。磁性ブレードギャップ 240μmと同様に比較的大きなギャップのため精度要求がゆるやかで、現像ローラー駆動トルクも軽減でき、駆動機構設計が楽であった。この特徴は後の白黒複写機、白黒レーザープリンターの小型・低コストのセグメント(market segment)において大きなアドバンテージをもたらすことになる。しかしカラー化に際してトナーに磁性を付与するのは色再現を阻害して無理である。磁場の下でのみ発揮されるジャンピング現像の優位性が、カラー化に乗り気になれない理由にもなった。
図 6.5 交流バイアスの作用(画像部と非画像部)4)
ジャンピング現像発明の端緒は桂川電機由来の㈱木下研究所、細野長穂のトナー飛翔現象の発見に基づいている。4章の 4.3.2で述べた静電潜像形成に関する、桂川 KIP方式とキヤノン NP方式の DC/ AC論争から 10 年後のことであった。現像でも ACバイアスの適用が著しい効果をもたらし"AC"は再びキヤノンの幸運の女神となった。複写速度によって最適値は変わるが、ACバイアスは正負ピーク値差Vpp = 1000 V内外、周波数は数 100 Hz〜数 1000 Hzの範囲が用いられたが、改良され ACの波形にも様々な工夫があった。
昭和 56 (1981) 年に日本電気から PC-8801が発売され、PC(パーソナルコンピュータ)が、一部のゲーム・マニア、企業の技術系部門で普及し始めた。筆者も PC-8801、高解像CRTモニター、外付け 5.25インチ FDD(Floppy Disk Drive)をフル装備したものを自費購入した。趣味としては総額¥600, 000以上の出費だったので、小学生の子供達に PCリテラシー(PCliteracy)の育成のためだとか、適当な口実を設けて親しんでいた時代である。それでも経験したことのない PCの計算能力を目の当たりにして、仕事にも活用しようと本気で考えた。
電子写真システムの画像形成プロセスは、帯電、露光、現像、転写、定着、クリーニング(初期化)の6工程で構成される。これらのプロセスを担うサブシステムのモデル式を図 6.6 の5組の数式のように設定し、その中のパラメータの実数値を求めて代入する事で電子写真システムの応答シミュレーションができる。筆者らは、「F/Fエンジン」と名付けた電子写真・間接乾式の複写機FT-4060などで、モデル式を適用する事でパラメータ設計を行った5)。
図 6.6 電子写真サブシステムのモデル式 5)
図 6.7 に示すサブシステムの主要パラメータ値を前記の5組の数式に代入すると、原稿画像濃度 ODに対する出力画像濃度 IDの応答曲線が得られる。図 6.8 は露光量E0 = 1.0〜 2.8 (μJ/cm2)の範囲で変えた時の OD-ID応答曲線を示し、図 6.9 は現像バイアス VB = 120〜480 Vの範囲で変えた時の同曲線を示している。初期の頃の複写機のコピー濃度調整は E0の調整で行う方式が多かったが、事務用途では IDの最高濃度が変えられる方が好まれ、次第に VB調整方式が主流になって行った。
図 6.7 電子写真サブシステムの主要パラメータ 5)
リコーは、1972 年に電子写真・間接乾式による普通紙複写機 PPC900を発売したが、それまで複写機事業を支えたきた電子写真・直接湿式による電子リコピー BSシリーズに比べて、経験が浅く、こなれていない技術を製品に組み込んだため、市場での品質問題に悩んでいた。創業社長の市村清から引き継いだ内務官僚出身の舘林三喜男は、社長として全社的品質管理である TQC(TotalQuality Control)導入を全社に号令し、統合品質管理実施と功績に関する「デミング賞」を獲得する目標を掲げていた。それから4 年が過ぎ、1975 年リコーは、DT1200により複写機の販売台数シェア1位となるなど大きな業績を挙げた。折しも「デミング賞」の受審期間であり、TQC導入前に開発された PPC900と、TQC導入後に開発された DT1200が格好の「QCストーリー」作成のための豊富な素材を提供し、図 6.10 に示す 7)1975 年の「デミング賞」受賞に輝いたのであった。
図 6.8 露光量 E0 = 1.0~ 2.8での OD-ID応答 5)
図 6.9 イアス VB = 120~ 480での OD-ID応答 5)
一方、富士ゼロックスはリコーの DT1200の攻勢により業績は急速に悪化し、1973 年の市場既設台数シェアー 71%は、1975 年には 49%に落ち込んでいた。そのような中でリコーのTQCを指導した朝香鐵一東京大学名誉教授は、富士ゼロックスでも同様に TQCを指導したのであった。当時副社長の小林陽太郎は、 TQC運動ではなく「ニューゼロックス運動(NX運動)」と 1976 年に命名しているが中身はTQCそのものであった。朝香鐵一は、商品企画の段階から指導に入り中途半端な目標ではダメだとした。開発期間、コスト、設置面積、複写速度、故障回数などについて、今まで不可能と言われた「ダントツ」の目標設定をしたのである。1976 年からの NX運動の中でに開発着手、1978 年に発売され3 年間で 40, 000台以上を生産したベストセラーマシン FX-3500は TQCの成果であるとされた。FX-3500の後継機のFX-4600の開発を一連の活動として「3500物語」と名付け、「デミング賞」審査に臨み 1980 年に受賞したのである 6)。
図 6.10 受賞式典にて舘林社長とデミング博士 7)
同じ複写機業界にあったリコーと富士ゼロックスが品質問題に悩んで、TQCを導入したのは同じ理由があると考える。電子写真式複写機の中核技術は、大気中での静電気力を用いるのがその特徴になっていて、他の成長産業の指導原理と比べると、極めて弱く不安定な物理量を扱うという宿命があった。そのため入力原稿画像から出力コピー画像に至る複写プロセスの主要パラメータが、使用条件、環境条件、劣化条件などに大きく影響を受けてしまうのであった。これらを誤差因子としてみなし、田口玄一が実験計画法の応用として開発した品質工学であるタグチメソッド(Taguchi Methods)が、両社の技術開発部門で熱心に用いられてきたことは偶然の一致ではない。田口は、誤差因子の影響がなるべく小さくなるような制御因子の水準を見つければ、頑健(ロバスト)な制御因子の設計ができると両社を指導し、これをロバストパラメータ設計または単に「パラメータ設計」と名付けた。この手法は説明は省くが、前述の 6.1.4電子写真モデル式の活用で説明した「パラメータ設計」とは名は同じでも非なるものであり、対象とするシステムの物理モデル式を記述した上で、代数式を用いてシミュレーションするものではない。
キヤノンは、複写機の信頼性には別の考えを持って展開していて、品質管理手法はさほど熱心に導入していない。むしろ電子写真の脆弱な指導原理を理解したうえで逆転の発想により、電子写真画像形成モジュールを、6章後半で述べる「一体カートリッジ」にした。トナーを使い切ったらユーザーが一体カートリッジを新品交換することによって画像形成モジュールが更新されて品質が維持された。例えばこのように、新奇で割り切った発想により魅力ある商品を生み出していった。またキヤノンは、電子写真複写機の拡大期の初めから、感光体表面電位センサー、温湿度センサーなどを複写機に実装して上述の誤差因子による、電子写真の主要パラメータの変動を検知・フィードバック制御することで電子写真システムを安定化させたのである。
この複写機大手3社の昭和 50 (1975-1985) 年代を振り返り、筆者は次のように要約したい。「技術開発部門まで TQCや品質工学の適用を推進した企業は、安定した競争力ある製品を作り業績を挙げることができた。反面、課題の対象をブラックボックスと見なし、自然科学に基づく因果関係を追求する行動姿勢が弱くなった。また固定的な問題解決の仕組みが定着し、自由闊達な物事の考え方、独創的発想、さらには魅力的な製品発明への道を見失なわせた。」
複写機の国産化から 10 年が経ち、電子写真プロセスの物理的理解が進んだ。また感光材料技術、トナー材料技術についても自社技術の蓄積によって特性が大きく改善した。また電子写真的特性値と材料物性値との関係が解りはじめ、機能性化成品メーカーとの共同開発も進んだ。
このような背景のもとで、複写機大手企業は、積極的に機種系列を充実することができた。また昭和 50 年代後半つまり 1980 年代になると、ゼロックスの基本特許を逃れた日本メーカーも、電子写真・間接乾式であるカールソン方式に回帰し収束していくのである。それでも複写機メーカー各社は、安易にカールソン方式の既存技術の中に安住していたわけではなかった。電子写真システムを構成するサブシステム性能の向上を図り、小型化、低コスト化、省エネ化、高信頼化など、各社独特の技術を開発して製品に実装して行った。
リコーの液体トナー現像転写方式、キヤノンの感光体表面に絶縁層を持つ NP(New Process)方式、ミノルタの TESI(Transfer of Electrostatic Image=潜像転写)方式は、それぞれの役割を終えることになる。
キヤノンは、1970 年代後半までは独自技術の NP方式にこだわっていた。その理由の一つは、感光体の可視域感度が優れていた事にある。感光層材料にCdS(硫化カドミウム)を用いていたので適切なドーパント(dopant)添加により可視域で平らな分光感度を得ることができた。これはカラー複写機の場合は大きなアドバンテージとなった。カメラ事業を基盤とするキヤノンにとっては、カラー写真のプリント、複写要求を引き受けるカラー複写機は特別の魅力があった。元々、オフィス文書の複写に事業の基盤を置いていたリコーや富士ゼロックスとは違った戦略的志向があった。さらに当時実用化レベルに達した、GaAs-GaAlAs系の半導体レーザーの波長 820 nmに対応して CdSの赤外域増感を行い、電子写真式レーザープリンターへも NP方式を展開することができた。
キヤノンは 1973 年に NP方式によるカラー複写機開発を発表していたが、販売に先駆けて 1978 年 3 月から国産初の普通紙複写機 NPカラーによるコピーサービスを東京、大阪で開始した。コピーサービス料金は用紙サイズにより A4、B4、A3でそれぞれ¥200、¥300、¥400であった。図 6.11 は、複写機の内部構成を示す。製品の寸法は 1430× 720×950 mmで、中央には巨大な CdSドラムφ320 mmが配置されている。下部に Y, M, C(黄色、マゼンタ、シアン)の3 色の現像機を備えている。B, G, R(青、緑、赤)の3 色分解フィルターを介して Y, M, Cに対応した潜像を形成、現像し CdSドラム左の転写ドラムに巻きつけた用紙に順次転写していく。3原色が転写された用紙はトナー溶融定着されてカラーコピーとして出力される。必要に応じて一般事務用の白黒複写機としても使えるように黒トナー現像機 Kもカラー現像機群の左に配置されていた。最大複写サイズは A3で、速度は 5枚/分、単色では 15枚/分であった。
図 6.11 キヤノン NPカラーの内部構成 8)
キヤノンは、1978 年に NPリテンション方式と名付けた毎分 77枚の高速複写機を¥5, 000, 000で発売した。図 6.12 に断面構造 8)を示すが、NP方式で形成された静電潜像は、絶縁層上に形成されるので、電位は減衰せずに維持される事を利用した。図 6.13 にリテンション(retention)プロセスの重要部 9)を拡大しドラム曲率を無視して示す。実際はニッケル電鋳法で製造した#250〜#400メッシュの金網の外面に NP感光層 CdS・絶縁層をスプレー塗布で形成した、スクリーン感光体ドラムを用いた。
図 6.12 キヤノン NP-8500 の内部構成 8)
スクリーン感光体を用いてトナー、イオンなどの荷電粒子を制御して画像形成するという発明は、G.L.プレスマン(Gerald L. Pressman)が 1970 年に発明し、 1972 年に特許取得 10)しているが、このアイデアをもとに発展させた。スクリーンドラム上に、NP方式により正の静電潜像を形成する。なおこのプロセスに限って NP方式の潜像形成で露光同時AC除電ではなく DC除電を用い明部電位を負極性にして潜像転写効率を上げた。桂川電機 KIP方式との論争で、キヤノン側は AC除電の進歩性を主張していたがこの場合は効果が逆転したようである。スクリーンドラム内部より負のコロナイオンを、対向する絶縁ドラムに向けて放射すると、スクリーン空隙部の電場に応じた負コロナイオンの選択的通過により絶縁ドラム上にスクリーンドラム上の潜像が逆極性で転写される。スクリーン上の潜像は維持されるので、同一原稿から多数枚複写(リテンション・コピー)をする場合、帯電露光のプロセスが省略されるので高速化できた。一度のNP方式による静電潜像からリテンションプロセスにより 100枚のコピーが得られた。1981 年に¥9, 850, 000で出した改良版の NP-8500 SUPERは、A4サイズ毎分 135枚の世界最高速機となりゼロックスの超高速機を超えるレベルに至ったのである 9)。筆者もそれ以前にリテンションプロセスの可能性を実験していたので出来栄えに注目した。高々#400メッシュのスクリーンを通して静電潜像が転写されるので文字、線画像のシャープネスが冴えなかった。画質にこだわるキヤノンらしくない製品だと思った遠い記憶がある。
キヤノン複写機開発センター所長に 1979 年に就任した田中宏は、学会や共同研究でつながりのある大学教授らとも議論を重ねた上で、これからの複写機の方向性は、カラー化、デジタル化、パーソナル化であると3つのキーワードを打ち出した 12)。オフィスで事務用途に使われてきた複写機を家庭用として開発できれば、利用される景色が変わると考えた。パーソナル複写機を「一家に一台」と田中センター所長が言った時に、同センターの課長は「一課に一台」だと聴き間違えたと言われるほど当時は到底不可能な目標であった。コストと小型化の要求から、キヤノンはそれまでこだわってきた NP方式を離れ、カールソン方式に回帰する良い頃合いでもあった。
図 6.13 NPリテンション・プロセス 9)
図 6.14 PC-10 / PC-20用カートリッジ 11)
当時の複写機事業の形態は、サービスマンによる定期保守、故障時緊急保守が前提になっていた。家庭用として販売するには、サービスマンに頼る保守点検は許されず、家電並みの手離れの良さが求められた。電子写真・間接乾式であるカールソン方式を用いる複写機の保守内容、故障項目の殆どは、感光体ドラムとドラム周りの電子写真サブシステムに集中していた。
逆転の発想により、電子写真画像形成モジュールを、 2, 000枚相当量のトナーが充填された図 6.14 に示す「一体カートリッジ」にしたのである。*) 2, 000枚の複写でトナーを使い切ったらユーザーがカートリッジを新品交換することによって電子写真画像形成モジュールが更新された。言い換えればカートリッジ交換によってユーザーが保守作業を実行したことになった。特許では、実はこの一体カートリッジ交換のコンセプトはミノルタが先行出願していた。キヤノンは商品化にあたり、ミノルタに赴き特許許諾交渉を行なっているが、具体的取引内容について筆者は知り得ない。
1982 年に愛称「ミニコピア」と名付けたパーソナル複写機 PC-10が¥248, 000で発売された。カートリッジ価格は、¥24, 000で、A4サイズのコピー単価は¥12程度と見積もられた。図 6.15 は PC-20の断面構成を示し、中央の感光ドラム廻りが一体カートリッジである。PC-10は、給紙は手差しのみの仕様であったが、上位機種 PC-20は、用紙カセットを内蔵し、毎分 8枚の複写ができた。図 6.16 には、PC-10のカートリッジのユーザー交換の様子を示す 12)。
図 6.15 PC-20の断面構成 11)
図 6.16 PC-10のカートリッジ交換 12)
カートリッジ価格を¥24, 000とするためには、製造原価は¥5, 000程度が達成されなければならないと筆者は想定する。その達成のため、生産技術の大胆な転換をしている。感光体ドラムの基材は、以前はアルミ素管を切削加工していたが、飲用アルミ缶などに用いられるアルミインパクト成形法が用いられた。ドラムには機能分離型 OPC感光層が塗工され劇的にコストを下げた。現像にはジャンピング現像が採用され低トルク駆動、小型軽量低コスト化に寄与した。カートリッジは、消耗品であるため大量生産が求められ、自動組み立て無調整化を前提とした設計が行われた。
1986 年には、一層小型化したカートリッジを利用する、ファミリーコピア FC3 /5が発売され、「一家に一台」の 1979 年の企画当初の狙いが果たされた。
1984 年にカートリッジは卓上型レーザープリンター LBP-CXの電子写真画像形成モジュールにも容易に適用された。米国パソコン、プリンタ大手企業であるHP(Hewlett-Packard Inc.)へ OEM(Original Equipment Manufacturer:相手先ブランド製造者)供給した。複写機とは比較にならない大量製造販売につながり、数十年に渡りキヤノン売上の2割以上を占め業績を安定的に支え続けた。消耗品のカートリッジは LBP製品系列の市場台数に比例して売上を伸ばした。このことが他の複写機大手と業績面で大差をつけることになった。
しかし一方で、大量のカートリッジが消耗品としては相応の高額で販売されているのに目をつけた「リフィル(refill)」業者が生まれた。その名の通り、トナーを使い切った使用済みカートリッジを独自ルートで回収し、類似のトナーを詰め替えて安値で販売したのである。ガレージで詰め替える零細業者からスタートし、中小企業レベルになったリフィル業者は環境保全を大義名分とした。大量のカートリッジが廃棄物にならないように、環境を守るリサイクル・ビジネスだと宣伝して世界中に広まって行った。大手複写機メーカー、化成品メーカーもリフィル用トナーを生産し中小業者に提供した。
それに対抗して、キヤノンも組織的にカートリッジ回収を推進した。1990 年には全世界で年間 1, 500万本のカートリッジを回収し、中国キヤノン大連リサイクル工場での再生事業を展開して行った 13)。
*)カートリッジ価格は、¥10, 000で 1, 000枚複写できるのを当初目標としたが、製造原価の目標達成が難しく取れる枚数を倍増することで原価目標をクリアーした。
ミノルタ(現・コニカミノルタ)㈱は、潜像転写方式による電子写真・直接湿式で、絶縁層を塗工した静電記録紙にコピーする複写機 EG101、EG301などを販売していた。液体現像剤を用いるローラー現像は解像度が高く、階調再現の良いきめ細かな複写画像が得られるので定評があった。1980 年に入ると複写機は普通紙を使う方法が主流になってきたが、既存の乾式2成分現像ではミノルタがこだわる画質の達成が難しいと考えた。のちにマイクロトーニング方式と名付けられた新現像発明のきっかけを、当時の複写機開発リーダーの田中晋は、以下のように語った。
「普通紙複写機技術ではるかに先行して、レンタル方式にてビジネス展開しているゼロックスと同じ土俵では勝負にならない。大幅な小型化と定期保守が不要な新方式で画質を高める必要がある。現像技術がキー技術になると考えていた時に、米3M(Minnesota Mining and Manufacturing Company)社から、導電性1成分現像方式の提案があって注目をした。3M方式はトナーの紙への転写はできないので、これをキャリアーにしてはどうかと考えたのが、マイクロトーニング(MT)方式開発のきっかけである。」新入社員の、岡建樹は、黙々とその新現像方式を研究し6ヶ月後に MT方式が見えてきたといった。昭和 53 (1978) 年 12 月、経営トップから「全員の知恵を集めて特別のプロジェクトをつくり、総力をあげて開発せよ」という方針が出された。田中晋は、他社と違う商品をつくるには、この MT方式をプロジェクトにのせるべきだと決心した。MT方式は、きめが細かく、むらがなく高品質の画像が再現でき、その後ミノルタ複写機の独自性の要となった。
昭和 54 (1979) 年 6 月から発売された図 6.17 に示す EP310は、当時として画期的に美しい画質で、売り上げを一気に伸ばしていった 14)。
図 6.17 ミノルタ EP31014)
MT方式は粒径φ20〜 30μmの細かなマイクロキャリアー(MC)を用いる。MCの構成は樹脂中に磁性粉を分散したもので電気抵抗は 1014 (Ω cm)以上の高絶縁性であり、従来の磁気ブラシに用いられる鉄粉の磁化の1 /4程度である。MCは低磁化でトナーとは逆極性に荷電していることから、非画像部に付着することがある。しかし静電転写では用紙上には転写されず、クリーニング部で回収され、再び現像部に還流される機構を設けてある。MCが非画像部に付着していると、静電転写時にスペーサー効果により用紙の静電吸着力が弱まり感光体からの用紙分離が容易になる副次的効果もあった。
MT方式の現像機断面構造を図 6.18 に示すが、現像スリーブは感光体ドラムと対面する「現像ニップ」部で同方向で略同速度で回転する。現像スリーブ内部には、逆回転する回転磁石ロールが仕組まれていてキャリア粒子を回転運動させるので現像効率を高め、むらのない現像ができる。キャリアが小径であるため磁気ブラシの穂が柔らかく、感光体と等速現像のため磁気ブラシ特有の方向性の穂跡、刷毛目が生じない。さらにキャリアが小径であるため比表面積が大きくトナーへの摩擦帯電能力が大きくかつ帯電能力劣化が少なく、現像剤は長寿命になった。
図 6.18 MT方式現像機断面構造(EP450Z)15)
図 6.19 には、既存の現像方式との比較をしている。ゼロックスは左端の磁気ブラシ方式を採用し、3Mは導電性トナー型、キヤノンは右端の絶縁性トナー型に ACバイアス印加をしていた。
図 6.19 マイクロトーニング方式と他の現像方式比較 15)
昭和 58 (1983) 年に発売された EP450Zは、世界初のズーム複写機であり、0.64倍から 1.42倍の間で倍率が無段階で選べるズーム機構を内蔵した。それまで決まった倍率の拡大縮小しかできなかった複写機の利便性を大きく向上させ世界的ヒット商品となった。このころから、ミノルタは、カメラから複写機が主力事業になっていく。
現・コニカミノルタ㈱の前身である小西六写真工業㈱は、単にコニカと呼ばれた時代が長い。コニカの複写機は、当初は酸化亜鉛感光体を使っていたが、1978 年から富士電機㈱の協力によりセレン(Se)ドラムが採用されるようになる。酸化亜鉛感光体から、非晶質 Seドラムに変更になり表面が滑面であるためにブレードクリーニングが適用でき小型、低コスト、バキューム装置不要になり低騒音にもなった。磁気ブラシ現像は、酸化亜鉛感光体に比べて Se表面が滑面であることで適正な現像条件をつかむのが難しかったが現像幅を大きくして解決した。
2成分現像では、現像を進めていくと当然のことながらトナーが消費されて濃度が低下していく。従来の普及機では、コピー枚数に応じて一定量のトナーを補給する、定量補給方式が一般的に用いられた。しかし、ユーザーの原稿種類は様々であり、定量補給ではトナー濃度が一定に維持できない。さらに現像剤は、同一トナー濃度であってもトナー帯電量(q/m)は、温湿度に依存して大きく変化したし、現像剤キャリアの長期使用によってもq/mは変化した。ゼロックスはこのことを既に承知していて、1969 年に J.マクシミアック(John Maksymiak)らによる現像能力検知制御システムの発明がある。図6.20は2成分現像剤の現像能力センサーの断面図である。(図中の説明は筆者が追記した)1 /10インチの間隔で対向された 2枚の NESA(Pittsburg Glass Companyの商標で透明電極付きガラス)の間を現像剤を流下させる。その際に数 100 Vの直流電圧を数 10 Hzで交互に切り替えると、NESAガラス両面にトナーが現像とクリーニングを交互に繰り返す。この状態を光電検知すれば2成分現像剤の現像能力がわかるという発明である。
図 6.20 2成分現像剤の現像能力センサー 16)
筆者も当時この方式に共感し、発明の追試をした。NESAガラス表面が、清浄である場合は正しく検知できたが、現像剤を流し続けてガラス表面がトナー樹脂成分、外添剤などで汚染されていくにつれて検知結果が大きくシフトしてしまい長期間稼働する実際の複写機には、相当に難しいと採用を諦めたことを思いだす。
コニカは、この現象に気づいていたかどうかは判らないが、実に合理的な現像能力検知制御システムを開発して実用化していた。
コニカは、米国コダックよりも古く明治初期からの銀塩写真資材の製造販売をしてきた。写真感材・機材の応答性評価に、グレースケール(grayscale)やカラーパッチ(colorpatch)を用いるのはごく普通に行われ、複写機の場合も原稿に対する複写画像の応答性評価にも使われていた。コニカは、この評価法を複写機内部に実装して、2成分現像剤の自動トナー濃度制御に用いた。図 6.21に示すようにコピー領域外のドラム上にパッチ露光を行い対応するパッチ潜像を形成する。現像後これを光電検知して現像トナー量を知る。この検知結果から現像剤の現像能力はもとより、感光体の特性変動まで含めて画像濃度を一定に制御できた。この光電検知方式は、感光体への用紙の巻き付きトラブルをも検知して紙詰まり問題を解決する用途にも使われた。デジタル化、カラー化の時代に入ってからも、感光体上の現像トナー量を光電検知する方法は、コニカだけではなく業界各社採用して良い結果を得た普遍的な技術である。
図 6.21 コニカの画像濃度検知方式
図 6.22 コニカ U-Bix Vの断面構造 17)
感光体ドラムは非晶質 Seと前述したが、非晶質SeTe合金系の感光層が用いられ可視光全域で増感されたことで、照明は、インバータ制御の蛍光灯で十分であった。さらに定着の離型材としてシリコーンオイルを使わない、ポリプロピレンワックス(PP-wax)を添加した新開発トナーを実用化した。図 6.22 に示す U-Bix Vは、1978 年に¥760, 000で発売された。 A4サイズ毎分 15枚の複写速度であり、故障が少なく安定した性能で市場での高い評価を受け V2、V3とシリーズ化されていった。商品企画から販売まで責任を持つ Product Managerとして複写機の信頼性、保守性を包含する可用性(availability)の概念を主導した清宮龍文の貢献は大きい。
1982 年には、図 6.23 に断面構造を示す U-Bix 4500が、感光体ドラムに非晶質 As2Se3系を用いて高感度化し、中高速機への機種系列への礎石となった。球形のフェライトキャリアが現像剤に用いられ画質が向上した。スーパーボールと呼ばれスチレン・アクリル系樹脂でコートされ高絶縁性のキャリアーであった。トナーには低温定着が可能な溶融粘度の低いバインダー樹脂が使われた。A3サイズ横幅つまり 420 mmの作像プロセス幅とし、A4サイズ毎分 45枚の複写速度を達成した。この作像プロセス幅のおかげで 1984 年に発売された姉妹機 U-Bix 5000では、新聞1ページ大の A2サイズ複写ができて大きな優位性を発揮した。
図 6.23 コニカ U-Bix 4500の断面構造 17)
電子写真画像形成部は、相当の完成度に達し、次はユーザー操作性、定期保守容易性にも気を配った。 U-Bix 5500は、原稿をプラテン(原稿置きガラス)の上に置くだけで原稿サイズを判別するAPS(Automatic Paper Selector)、シート原稿自動送出装置 ADF(Automatic Document Feeder)、自動両面複写装置ADU(Automatic Duplexing Unit)のオプション装備、さらには両面原稿を自動的に順次表裏反転してプラテンに送り込む RADF(Reversible ADF)など、1986 年発売当時としては先進機能であった。図 6.24 にはその外観を、図 6.25 には、ADF、LDH、RADFの断面機構を示す。A2サイズ原稿コピーの場合は、図 6.25 (A)の、左から原稿面を上向きに送り込む。プラテン下の照明結像系は、静止状態で、画像プロセス速度に同期して原稿が搬送されるのを読み取って感光ドラムに露光する。この方法で A3のプラテン・サイズで A2の原稿がスキャンできた。図 6.25 (B)は RADFであり、図(B)の右端に原稿の表裏反転機構(original turning over section)を設けた。
図 6.24 コニカ U-Bix 5500の外観 17)
図 6.25 コニカの ADF, LDH, RADFの機構 18)
日本では、奈良時代から戸籍用紙に美濃和紙が用いられた歴史もあり、欧米と違って公式文書が和紙であることが多かった。和紙原稿は半透光性でジアゾ複写には適していたが、普通紙複写機の ADFではトラブルの因となり、唯一無二の原稿破損のクレームを恐れた。一方欧米では事務作業の自動化の要求から、昭和 50 年代後半の欧米への輸出機仕様は ADF、RADFは必須の時代になってきていた。
コニカは設計思想を見直し、保守が必要な機能モジュールは、全てをモジュラー化して調整、清掃、交換などの保守性を高めた。そのことで初期装置コストは上がったが、保守サービスの時間短縮につながりトータル・コストが低減できた。
このように、コニカは顧客を驚かすような革新技術や世界初の仕様ばかりを追いかけるのではなく、複写機を使う立場に立って低速から中高速の製品系列を開発し、地道に世界の複写機市場での評価を高めていった。
富士ゼロックス(現・富士フイルムビジネスイノベーション)㈱は、国産複写機メーカーの小型卓上機の攻勢を受け、米ゼロックス開発機種のレンタル価格の値下げで対抗する形でなんとか市場シェアの低下をしのいでいた。親会社ゼロックスとの関係から富士ゼロックス経営陣は、独自に小型機を開発するのには及び腰であった。このような時期に、リコーから転職した山本一宣がリーダーとなり若手メンバーで試作機を1 年余りで完成させた。こうして開発され 1973 年に発売された製品 2200の外観を図 6.26 に示す。発売年からみて第5章で取り上げるべき製品とも言える。富士ゼロックス 2200は W550× D500×H350 mmであり世界最小の複写機で、最大 B4サイズで毎分 5枚の速度であった。レンタル基本料金は月額¥6, 000、¥12 /枚の価格設定とした。図 6.27 は内部構造であり、Se感光体ドラムφ121 mm、パドル(paddle)で2成分現像剤をドラムに掬い投げ、カスケード現像(paddle wheel cascade development)する方法を用いた。
図 6.26 富士ゼロックス 2200の外観 19)
図 6.27 富士ゼロックス 2200の内部構造 19)
親会社もこれを評価し後に米ゼロックスへも輸出することになる。このようにして、富士ゼロックスは、日本・アジア・オセアニアの市場からの要望並びに、国産競合メーカーを強く意識した仕様を盛り込んだ複写機の独自開発に進んでいくのである。
独自開発の第二弾が FX-3500であるが前述の、6.1.5 TQCと品質工学で述べたとおり、NX(ニューゼロックス)運動の成果と言われている。富士ゼロックスの開発、設計、サービス、販売に相当の自信を与えた機種であることは間違いない。
無論この複写機はカールソン方式を用いていて、既存のゼロックス複写機の要素技術がコンパクトに組み込まれている。FX-3500は、開発期間を従来の半分の 2 年に、毎分 60枚 A4の複写速度で、前任機で米ゼロックス開発 FX-4000の 70%の小型化目標があった。そのため、最大複写サイズ A3は諦め B4サイズまでとすること、感光体ドラムを従来より小径にして高速回転すること以外は既存技術を用いることに方針が決まった。それでも米ゼロックスからはクレージーだ絶対にできないと言われていた 6)。のちに複写速度は、 100 V/15 Aの通常電源で使えるように A4サイズ毎分 40枚に落とし仕様変更している。
筆者は、1978 年に発売されこの複写機の内部機構や画像形成プロセスを一通り調査したあとでコピー画像の評価などもした。その時の印象では、ミノルタのマイクロトーニング EP310の画像が絹のブラウスであると喩えれば、FX-3500は木綿のシャツのような風合いで、普段使いのタフな複写機といった好印象があった。非晶質の As2Se3系の硬質の感光体ドラムが用いられていて非晶質 Se、SeTeに比べて暗順応した状態から複写スタートすると感光体表面電位が変動する。そのため、複写プロセス前に数回の空振りモード設けて表面電位を安定化していた。また出来るだけ感光体への入射光侵入深さを浅くして電位変動を少なくするために、初期化用の光源などは短波長と長波長を適宜使い分けていたように思う。トナー転写時の感光体ドラムへの用紙巻き着きを防ぐ「分離爪」は常時ドラム表面に当接して擦り傷をつけコピーの中間調部に白筋となって現れた。それでもさほど気にしなかったのは米ゼロックスが定めた品質基準に準拠したのだろう。
レジェンドとなった名機 FX-3500であるが、何故か技術の特徴を開示した文書は見つかっていない。元富士ゼロックスの研究開発部門で活躍した深瀬康司に関係資料を探してもらったが技術的内容、機構図などは発見できなかった。今となっては図 6.28 に示す外観写真のみである。
図 6.28 富士ゼロックス FX-3500の外観 20)
富士ゼロックス独自開発の FX-3500は、米ゼロックスでも出来栄えが評価され、欧米に輸出されはした。しかし米国の技術陣は、As2Se3系感光体の不安定性など、構成技術の懸念事項を指摘し全世界への販売拡大には反対した。よく言われる NIH(Not Invented Here)の壁を設けて富士ゼロックスの前に、その後も立ちはだかったと当時社長の小林陽太郎(1933-2015)図6.29は後になって回想している 21)。
図 6.29 小林陽太郎富士ゼロックス元社長 22)
このことに関して、筆者は次のようにやや異なる解釈をしてみたい。FX-3500の発売年に社長に就任した小林陽太郎は、米ゼロックスの CEOデービッド・カーンズ(David T.Kearns)に会って FX-3500の開発について報告している。FX-3500の成功は、心酔していた TQC(全社品質管理)運動の結果であると小林が説明したのは確実である。カーンズは FX-3500の開発成功を我が事のように喜んで、何と米ゼロックスでも TQCを展開しようと宣言したのである。しかしながらニューヨーク州北部ウェブスターのゼロックスのウイルソン研究センター(Wilson Center Research/ Technology)の技術陣は拒絶反応を示した。「ダントツ」の TQC目標設定、品質工学によるパラメータ設計などの手法に疑念を抱いたのだろう。電子写真の科学と技術を正統な科学的アプローチで蓄積してきた技術陣は、日本発の TQC、品質工学手法で複写機の新機種を開発することには、到底納得できなかったのではないだろうか。科学的知識と経験を重視した、誇り高い技術陣は米国西海岸シリコンバレーの対極をなし、東海岸のエスタブリッシュメントを自認する米ゼロックスの技術陣であった。
富士ゼロックスは、電子写真・間接乾式の複写機を開発するうえでは、ゼロックス本社の材料技術、プロセス技術、要素技術、評価方法、特許などを使うのは自由であったと思われる。そのことは日本の競合他社と違って実に恵まれた環境にいたのだろうが、内情は違うところに苦労があった。国産複写機メーカーは当時、ほとんど協調なしに世界の成長市場でひしめき合って競争していた。その中で富士ゼロックスは自社の販売テリトリーである日本・アジア太平洋地域の市場シェアを守り拡大していくという任務と使命があった。この厳しい市場環境下で米ゼロックスの技術のみで戦うには限界を感じていたのである。子会社として主導権を握り世界市場向けの複写機開発を行うのは多国籍企業の外資合弁日本企業の立場としては容易ではなかったと想像する。
リコーの汎用複写機は、液体現像剤を用いる間接湿式の昭和 50 年発売の DT1200に始まり DT750、 DT1700の A3サイズの機種系列まで順調な売上を示していた。しかし、昭和 50 年中盤頃には、競合各社は全て乾式に移行していて、湿式の弱点である用紙表面性の制約、コピー最高濃度が低い、溶剤臭などを突いてきた。複写機事業への依存度を高めるリコーには、乾式プロセスを用いる複写機の系列化は急務であった。その頃から複写速度毎分 5枚〜 70枚 A4の品揃えが視野にあったが、その達成までには相当の道のりがあった。
最大 B4サイズで毎分 8枚の複写速度を実現したリコー初のパーソナルユース複写機は、1984 年のハノーバー・メッセ CeBIT(Centrum für Büroautomation,Informationstechnologie und Telekommunikation)にてマイリコピー M10として発表され、国内外同時発売された。図 6.30 の構造の M10は 23)、キヤノンのパーソナル複写機PC-10を相当に意識して商品企画された。
図 6.30 マイリコピー M10の断面構造 23)
キヤノンの PC-10は一体カートリッジ方式であり、トナーを使い切る度にそれがユーザー交換された。全体機構設計を行った鈴木稔はミノルタ、キヤノンの一体カートリッジ先行特許を回避するだけではなく、環境に配慮した廃棄部材の少ない方式を考えた。定期清掃や定期交換されるべき、帯電器グリッド、感光体ベルト、クリーニングブレード、回収トナータンクを樹脂ケースに納め「マスターユニット」として4種の機能部材を一体化した。マスターユニットは感光体ベルトの寿命を基準に、残りの3種の部材はそれに見合って過不足ない寿命になるようにバランス良く設計したのである。
キヤノンのPC-10、LBP(Laser Beam Printer)シリーズが実現できたのは、一体カートリッジのおかげであるが、そのカートリッジ化が可能になったのは、6.1.3で説明したようにジャンピング現像の寄与するところが大きい。絶縁性磁性トナー、磁性ブレード、非接触現像のコンビネーションが現像機構の精度要求をゆるやかにした。その結果として低駆動トルク、軽量・小型化、低コスト化ができた。さらに自動組み立て無調整化への道が開け大量生産できる消耗品として一体カートリッジが完成していった。
坂本康治は FEED(Floating Electrode Effect Development)と名付けた絶縁性磁性トナーを用いる 1成分現像方式を発明した。この新現像技術を OPCベルト感光体に適用するのがリコーのパーソナル複写機の基本構想となっている。導電性磁性1成分現像は現像ガンマ(gamma)が極端に高い2値的な現像であり、露光寛容度(latitude)が狭く、階調再現、低コントラスト文字、細線再現に大きな課題があった。写真の再現性はあきらめられても、その頃の日本のオフィスでは、鉛筆書きの濃度の貧弱な原稿が多く実使用上の問題は大きかった。キヤノンのジャンピング現像は磁性1成分現像の上記の課題を相当に解決してはいたが線画・文字のシャープネスには未だ課題があった。
これら磁性1成分現像の課題の全てを FEED現像は解決するものと期待されたのである。図 6.31 に示す M10現像ユニット構成は単純で、反時計方向に 1800 rpmで回転する8極マグネットローラの外側を FEED現像スリーブが独立に回転する。トナーは、磁力で現像スリーブ表面に吸引されている弾性磁性ブレード(薄層化ブレード)を通過して摩擦帯電して薄層形成される。OPCベルトと現像スリーブとの線速比は4倍で、静電潜像に同方向で接触現像される。図 6.32 の概念図の断面拡大図に示す現像スリーブの導電性基層上には分厚い誘電層、表層にフロート電極層が形成されている。フロート電極はちょうど2成分現像剤キャリアーのように、静電潜像エッジ部の電場を強調する。約 100μmの銅粒子は、スリーブ上の誘電体表面に密に散布、接着、埋没されて上部は研削し均される。それらのフロート電極効果で低コントラスト文字、細線再現が良く、写真もエッジ部が強調され尖鋭な再現ができた。ベタ部と細線部の電場の強度バランスが、誘電層厚で最適に設計できたからである。
図 6.31 M10現像ユニット構成 24)
図 6.32 FEED方式現像スリーブの概念図 25)
M10商品テーマリーダーの田川和明は、当時リコーが保有する技術を上手く活かして設計したのだと以下のように振り返る。「OPCドラムはバッチ式生産方式である。OPCベルトは塗工機で連続生産する OPCロールからカットして作られるので生産性も高くコスト面でも有利であると考えた。さらに OPCドラムに比べ、電子写真機能モジュールのレイアウト自由度は高くスマートな設計ができた。接触現像である FEEDはもとより、トナー転写部で静電吸着する用紙の分離に小径ローラーの曲率分離が使えるという利点など含め多くの利点があった。」
菅野布千雄は、誘電層フロート電極構造を簡素化し 40極着磁したゴム磁石を誘電層とする FEED現像スリーブを発明した。そうすることで磁石ローラーと現像スリーブとが一体化され、回転数が下げられ低コスト化にも貢献した。それを用い、鈴木稔の本体設計でシンプルさを徹底した A4サイズ機のマイリコピー M5は 1985 年に発売された。この複写機は 10 年以上のロングラン商品となった図 6.33 。その後、低速の複合機はじめ生涯プリント量の少ないファクシミリ、プリンターなどにもこの FEED現像と OPCベルト組み合わせの基本技術構想は使われ続けた。
図 6.33 マイリコピー M 5の外観 23)
大型コンピューター巨人の IBMが 1981 年に、IBM PC(Personal Computer)を発売してコンピューターが一般社会へ普及し始めた。1984 年には AppleComputer, Inc.(現・Apple Inc.)が初代 Macintoshを発売した。個人が望めば商業印刷並みの美しい書体とデザインの文書を製作できる DTP(Desk TopPublishing)が可能になった。
レーザープリンターは、電子写真の露光系にレーザー走査モジュールを適用したものである。米国ゼロックス PARC(Palo Alto Research Center)で 1971 年に開発された。1970 年中盤から大型コンピューター用の高速プリンターとしてレーザープリンターが使われていた。これを小型・低コスト化、ユーザー保守可能にして欲しいという要望が急に出てきた。HP(Hewlett-Packard Inc.)、Apple、IBM、DEC(Digital Equipment Corporation)などである。
パーソナル複写機のアナログ露光系を、ちょうど実用化開発された GaAs系半導体レーザーを光源に用いる走査光学系に変更すれば良いと、はじめは簡単に考えていた。複写機の市場に比べて開拓市場であるパソコン用のプリンターの市場規模は、はるかに大きくなるだろうという事業への成長期待があった。
しかし、慣れ親しんだ複写機とレーザープリンターでは、その技術構成のファームウエア(firmware)がかなり違っていた。印刷データは、個々のプリンター仕様からの独立性確保とコンピューターでの印刷処理負荷軽減のため PDL(Page Discription Language:ページ記述言語)のベクター画像(vector image)で記述されている。そのままではプリンターでは印刷できない。プリンターコントローラーでは、PDLを高速に解釈して、ビットマップ画像(bitmap image= raster image)のページ画像データに変換する。これをレーザービーム走査方式の電子写真画像形成エンジンに送って用紙へのプリントが出てくる。プリンター・コントローラーとそのファームウエアがプリンターの性能を決定づけたが、複写機メーカーは未だコントローラの知識と技術が未熟であった。そのため米国コンピューターメーカーへの OEM(Original EquipmentManufacturer)供給という事業形態をとり、コントローラーとそのファームウエアなどは相手先に依存した。
リコーは、1982 年のハノーバーメッセ CeBITにて LP4120を発表し好評を博し、自社で活用するとともに数社に OEM供給した。米国大手コンピューターメーカーと契約を結び仕様合意のもとで開発し 1984 年に発売したのが図 6.34 に示す後継機の LP4080である。この全て前面操作で、用紙反転してページ順に裏面排紙される設計は鈴木茂が構想し、その後のレーザープリンターの標準となる。複写機に慣れ親しんだリコー社内の企画担当、技術陣は、プリント結果が見えない裏面排紙に当初は反対した。現像方式は、プリンターの小型・軽量化・低コスト化のために CD(CompositeDevelopment)方式と名付けられた、1
図 6.34 リコー LP4080の外観 23)
成分現像の簡易な機構が用いられた。高抵抗磁性トナーに黒色マグネタイト(Fe3O4)微粉を混合した現像剤を用いる、いわゆる1.5成分現像であった。本稿では詳細理由は省くが、この CD方式の安易な採用が、リコーのその後の卓上レーザープリンター OEM事業を茨の道に導くことになる。
一方、キヤノンの事務機事業本部長の山路敬三とレーザープリンター責任者であった北村喬は、HP社のプリンター事業本拠地アイダホ州ボイジー(Boise, Idaho, USA)に 1983 年 4 月に訪問していた。一体型の EPカートリッジでレーザー露光方式の図 6.35 に示す LBP-CXのデモンストレーションを行い、先行しているリコーの LP4120系列を覆すことを狙っていた。なお EPは電子写真英語表記の頭字である。翌年にキヤノンが LBPを供給し、HP社がそれを販売する OEM契約が結ばれている 12)。HPはEPカートリッジ方式によるユーザー保守のコンセプトを選択し、リコー LP4120の CD方式の課題を正当に評価したと考えられる。リコーは HP社への OEM供給事業ではキヤノンとの競争に負けたのであった。
図 6.35 LBP-CXの断面構造と外観 27)12)
挽回すべく1986 年にφ40 mmの OPCドラム対応の新規な絶縁性非磁性1成分現像 S-NSP(Soft-Non magnetic Sigle componet Process)を急いで開発し世界最小のLP1060として仕立てた 23)。OPCドラムに対応すべく、ニトリルゴム(NBR)系のローラー表面にトナー離型性の電気的中抵抗層を塗工した S-NSPを開発した。大手コンピュータメーカーに OEM供給されたが、低温低湿環境で、ローラーに塗工した表層の体積抵抗が上昇し画像トラブルに悩まされた。このプロジェクト責任者達は、小型プリンターの OEMビジネスというものが、複写機事業とは似て非なるものであることを深い傷を負って体得した。この頃から本社経営トップは、プリンターのOEMビジネスに拒絶反応を示すようになった。
Ni電鋳の基体を用いた OPCシームレス・ベルトに、 FEED現像を適用した図 6.36 のレーザープリンター SP2000が発売されたのは 1992 年である。実に最初の LP4120の発表から10 年が経ち、パソコン周辺機器としてのプリンターの価格は、$1, 000USDを下回り、利益は急落していた。背景に日本のバブル崩壊に伴う経営環境の悪化もあり、プリンター事業への新たな資源投入はここで止まった。
図 6.36 リコー SP2000内部構造 23)
その後、リコーは汎用複写機をデジタル化して、その中にプリンター機能を持たせる MFP(Multi Function Periferal:複合機)の製品系列を築いていくことになる。
1982 年に開発された汎用複写機の電子写真画像形成モジュールは、社内で「F/Fエンジン」と名付けられていた。100μmのフェライト粒子に1μmのシリコーン樹脂コートされたキャリアを用いる「F現像剤」、高感度で硬質の非晶質 As2Se3のφ80 mmの「Fドラム」を用いた。F現像剤、Fドラムは世界で最も多く生産されたが、開発された電子写真プロセスとともに完成度が高かったと言える。F現像剤は、トナー荷電制御する CCA(Charge Controll Agent)として、金属アゾ染料錯体を採用したトナー設計を行った井上哲の功績が大きい。また Fドラムは、As2Se3の分子レベルの構造解析から真空蒸着による感光体成膜条件まで研究開発をリードした藤村格の存在が記されるべきである。F/Fエンジンは、1992 年頃まで 10 年間にわたり、A4サイズ複写速度 13 cpm(copies per minute)の普及層から 82 cpmの高速層までの幅広い機種系列をカバーしたことに最大の意義があり、その後のデジタルの時代においてもリコーの複写機画像形成エンジンの規範をなすものとなった。筆者はこの F/Fエンジンのプロセス開発リーダーを務め、本章6.1.4で紹介した通り、パラメータ設計も行ったので特別な思いがある。
1980 年頃にキヤノンが小型複写機を開発しているという噂があった。本体設計構想を練っていた柳川信之は、未だ1成分の FEED現像の可能性は見えておらず、パーソナル複写機の構想までには至らなかった。 2成分現像を用いた普及層向け卓上型で速度 20 cpmの汎用複写機を構想した。リコーが最も拡販しやすい複写速度と価格帯であり、FT4060は1982 年に¥798, 000で発売された。図 6.37 に示すのは複写機右上の SADF(Semi-Automatic Document Feeder)によって自動的にシート原稿を送り、左端の 10ビンのソーター(Sorter)に自動丁合(ページ揃え)されるオプションをフル装備した状態である 28)。
図 6.37 周辺機装備した FT4060の外観 28)
図 6.38 は内部構成を示している。Fドラムは、可視光波長域の感度が高いので結像レンズは、素直なダブル・ガウスタイプ(Double Gauss Type)の明るさ
図 6.38 リコー FT4060内部構造 23)
F8で、実際は F10まで絞って使っていた。光路長短縮のため半画角 23度が必要で、高屈折・低分散の凸レンズ、低屈折率・高分散の凹レンズの各々の硝材で設計された。焦点深度も深く低空間周波数域から高周波域まで高い MTF(Modulation Transfer Function)を持っていた。静電潜像を忠実に再現する F/Fエンジンに適用すると、あらゆる原稿で安定したシャープな複写画像が得られ世界的に好評を博した。
FT4060商品テーマリーダーの木村和弘は、電卓事業に携わった関係から、デジタル技術の知識・経験が豊富で、μCPUを用いてプロセス制御を含む複写機の全体制御をすることに決めた。原稿走査ミラー光学系には、小出博が開発した直流サーボモーター技術を採用した。走査時のミラー加速・減速運動による振動や他の駆動系の負荷変動から逃れ、駆動品質が上がった。さらに複写変倍率の多段化にも柔軟に正確に対応できた。操作パネルは、文字記号が印刷されたフラットキーとして、仕向地言語対応を容易にした。高輝度多色蛍光表示管を採用し、コピー中ランニング表示はじめ機械の状態がひと目で判るようにした。本体意匠設計は、斎藤泰弘が担当したが特に表示パネルは、ユーザー操作性を配慮、販売面でも訴求力があり、意匠としてもおもしろく、図 6.39 に掲載した。
図 6.39 FT4060の操作パネル 26)
基本設計が完了後に、現像と転写の間の非常に狭いスペースに、転写効率を高める緑色光源が必要になり、筆者が困った時のことである。木村は秋葉原ラジオデパート辺りで緑色 LEDを 50 個以上も入手して細長いプリント板に試作実装してくれた。結果が良好であったので、量産図面に反映してもらった。しかし量産品 LEDの発光波長は、LEDチップのメーカーが違ったのだろうか、やや長波長の黄緑色になった。画像プロセス繰り返しによる Fドラム固有の表面電位変動、残留電位蓄積の傾向が変わり対応に追われた事など懐かしく思い出される。
複写による事務処理量の増大に伴い、複写スピード、コスト低減への期待が高まり F/Fエンジンは、高速の機種系列に展開されていった。谷達雄は、コンソール型の A4サイズで 46ズ横幅つまり 420 mmの作像プロセス幅とし、用紙セット方向を統一した。このことで変倍コピー時、用紙の縦横セット方向を入れ替える手間が省けた。cpm、最大サイズ A3機の設計構想を進め、1983 年に FT6080の発売に至った。コニカ U-Bix 4500シリーズと同じように、A3サイ
図 6.40 は前カバーを解放、クラムシェル(Clamshell)機構を解放して紙詰まりを安全に取り出せる状態を示す。最初のクラムシェル機構は、富士ゼロックスから 1974 年に発売されたFX3103卓上機であるが、コンソール機では最初であり田川和明が構想設計した。この当時は、感光体ドラムからトナー像転写して除電分離する方式を採用したので、剛性のない用紙を通した場合は、たまに紙詰まりが起きサービスマンを呼ぶ場合があった。社内で「カバ口=カバグチ」と呼んでいたクラムシェル機構は、ユーザーにこの紙詰まり除去を任せられるように設計したのであった。FT6080の内部構造を図6.41に示す。
図 6.40 FT6080のクラムシェル解放状態 23)
複写による情報伝達が全盛を迎え、自動両面コピー機能が望まれていたが、本機は世界初の A3サイズまでの自動両面コピーを実現した。ADF(Automatic Document Feeder)により50枚迄のシート原稿がセットでき自動給送された。コピーは20ビンのソーターに自動丁合(ページ揃え)される。原稿サイズと用紙サイズが異なる場合、コピー用紙サイズに合うように複写倍率を自動設定するような自動判別機能を装備した。これらの一連の設計思想がコピー作業の生産性を高めたと言える。
この製品系列は、約 10 年にわたって速度を高めつつ、信頼性を上げていった。1983 年に発売した FT6080では 46 cpm/A4、プロセス速度 280 mm/ secあったが、1992 年発売の FT8200では 82 cpm/ A4、プロセス速度 490 mm/secに達した。スリット露光方式では世界最高速度レベルとなった。Fドラム表面にウレタン樹脂をオーバーコートしてドラム寿命と画質を著しく改善した。F/Fエンジン系列全般にわたり現像プロセス技術を中心とする今井力の功績は非常に大きい。
信頼性を上げるためのプロセス・コントロールも完備された。露光ランプの経時的光量低下、光学系の汚れ、帯電器ワイヤー汚れ、Fドラム感度・残留電位変動などを電位センサーで検出した。これで帯電、露光、現像などのプロセスにフィードバックする総合的プロセス・コントロールが可能になり常に安定した複写機の運転・稼働が提供できた。大企業のコピーセンター、コピーサービス業者の大量複写ユーザーの最大の期待は信頼性である。最初FT6080の MCBC(Mean Copies Between Calls=サービスコール当たりの平均コピー枚数)は、15, 000枚であったが、同シリーズ最高速機 FT8200の MCBCは 44, 000枚まで向上した 23)。
国産普通紙複写機の誕生から約 10 年が経ち 1982 年を過ぎた頃には普通紙複写の基本プロセスは、カールソン方式に収束していった。その結果、電子写真用の感光体、現像剤、トナーなど標準的なものの調達は、化学、素材専業メーカーなどを通して手に入るようになり、複写機事業への参入障壁は下がった。
シャープ㈱は電機メーカーとして初めて A4サイズ毎分 8枚の SF-710を 1974 年に発売以来、1981 年には SF-750で世界最小、最軽量を達成し北米で好評を得ていた。1985 年には毎分 50枚の最高速機 SF9500を出し、低速から高速までの製品系列を整えた。それを追いかけるように、東芝、松下電器、三洋電機(松下、三洋は現・パナソニック)㈱などの電機メーカーも複写機事業に参入してきた。家電製品と違い、売った後にも消耗品や保守サービスから一定の収益が上がるビジネスモデルは魅力的であった。
富士ゼロックス、リコー、コニカ、キヤノン、ミノルタ、それぞれの複写機事業部門は新規参入してきた電機メーカーの家電設計技術、生産技術に脅威を感じた。そして複写機の全面電子制御化、小型・軽量化設計、低コスト設計をはじめ、生産技術力の強化を急ぐことになる。戦略的に複写機のパーソナル化を展開したキヤノンの卓上機の小型軽量化の事例を図 6.42 に示す 27)。1979 年からの7 年で体積は1 /3、重量は 1 /5までになった。PC-10以降はカートリッジ交換のみでメンテナンスが簡単になり個人商店、医院、弁護士事務所、美容室、一般家庭などの新市場を開拓していった。
図 6.42 卓上複写機の小型軽量化 27)
コニカ(現・コニカミノルタ)の伊藤國雄は 1989 年の同社技報にて、過去 20 年を振り返り次のように述べている 18)。「1970 年当時の国産複写機は、性能の割に大型で高価であったが、高速、高機能化すると共に小型、軽量、低価格化する道のりを歩んできた。コニカの場合、コピー速度当たり重量で 1 /8、体積で 1 /6〜 1 /7、価格で 1 /4〜 1 /5と様変わりした」図6.43は1971 年から 1988 年までの複写機業界製品の複写速度(cpm)当たりの重量(kg)の推移を示し、図 6.44 は複写速度(cpm)当たりの価格(単位¥10, 000)の推移を示している。なお複写速度 cpmは copies per minuteの頭文字語であり A4サイズ毎分複写枚数である。
図 6.43 複写機の重量/ cpmの推移 18)
図 6.44 複写機の価格/ cpmの推移 18)
複写機事業比率の高い、富士ゼロックス、リコー、コニカ、キヤノン、ミノルタの各社は複写機のコモディティー化を防ぎ、付加価値を維持拡大していくための課題に直面していた。
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23) | 社史編集委員会"リコー 60 年技術史"㈱リコー, 東京(1996), pp.146, 155-158, 164-172, 282-283 |
24) | 田川和明, 坂本康治"静電複写機マイリコピー M10" Ricoh Technical Report No. 12, 98p.(1984) |
25) | 菅野布千雄, 坂本康治, 小林一雄"フロート電極による電解強調効果を利用した新一成分現像方式" Ricoh Technical Report No. 12, 27p.(1984) |
26) | リコー提供"RICOPY FT4060製品カタログ", 東京, (1982) |
27) | キヤノン史編集委員会"キヤノン史技術と製品の 50 年[別冊]", キヤノン㈱, 東京(1988), 150p. 156p |
28) | リコー提供, 広報室 |
国際交流と貢献
晝間健治(1930-2014)はリコーの複写機事業の拡大と発展に貢献した。ビル・ゲイツをマイクロソフト社設立時から支援注)するなど多彩な国際的ネットワークの持ち主であり、楽しい情報も含めて様々な貴重な技術情報を収集して社内にもたらした。
筆者は晝間に無理に基調講演をお願いしたことを懐かしく思い出す。
国際画像学会であるIS&T(Society for Imaging Science and Technology)の第10回国際会議は米国NewOrleans,LAで開催された。講演題目は「Future Aspects of Electrophotographic Technologies for Non-Impact Printing」であり、我が国の電子写真複写機・プリンター関連の技術を系統的かつ網羅的に要約し好評を博した。
晝間健治, Lawrence B. Schein
NIP10 Conference in 1994
Lawrence B. Schein(1944-2011)は、米国ゼロックスをはじめ、IBMで電子写真の現像理論などを研究し多くの論文を発表し書籍も出版した。例えばトナー比電荷量q/mの計測法は、多くの電子写真関連の研究、開発、製造の場面で半世紀経った現在でも使われている。
写真は筆者が撮影した、1994 年の第10回国際会議のレセプションで談笑するリコー副社長晝間健治と IBMを退職したばかりで独立コンサルタントを始めた頃のL. B. Scheinである。
注) マイクロソフト社設立直後の1978 年に訪問した元リコー法務担当審議役篠田嵩は当時を以下のように回想している。
アルバカーキ(Albuquerque, NM)は砂漠の町であった。マイクロソフト社は高層ビルの10階位にオフィスを構えており、そこではそばかすだらけの青年がにこやかな笑みをたたえ、我々を出迎えてくれた。それがビル・ゲイツ(William Henry"Bill"GatesⅢ)(1955 -)であった。社長室の絨毯にはそこかしこに書類が乱雑に置かれ、ゲイツはそこでしばしば寝泊りしていたらしい。その時アルバカーキで結んだ契約はFORTRAN80やCOBOLのプログラミング言語などについてのライセンスだったと思うが、対価は$140, 000USDであった。顧客に提訴されていたらしい当時財政的に苦しかったマイクロソフトには大きな収入だったかもしれない。更にその翌年だと思うが$1, 000, 000単位で何回か、ソフトウエアのライセンス契約などの名目でマイクロソフトに対価を支払ったようだ。後略
(以下著者記述)その後IBM-PC用のOSの開発請負で生まれたMS-DOSによりマイクロソフトは現在に至る地歩を固めるのである。
昭和 60 (1985) 年頃から、汎用複写機は基本性能・機能が飽和に達していた。我が国の複写機大手は買い替えを促進するためにデジタル化、カラー化への道を選んだが必ずしも先が見えていたわけではなかった。
C.F.カールソンによる電子写真の発明を理論面から裏付け、体系化した物理学者 R. M.シャファート(Roland. M. Schaffert)は、1970 年に IBMサンノゼ研究所を退任し技術顧問をしていた。彼は 1981 年リコー・テクニカルレポート巻頭言にて以下のように述べている。「電子写真は通常高ガンマ(gamma)のプロセスである。文章、線画の複写には理想的であるが、写真の再現には適していない。今日の高速複写機では高品質の連続階調再現はできない。画像を光学的なものからデジタル形式に変換してしまうと濃度要素を電子的に調節してガンマを最適化できる。カラー画像では、画像は電子的デジタル形式のままで、色補正を電子的に行うことができる 1)。(著者注記:ガンマとは、階調画像の入出力応答特性線図の直線部の勾配である)」このシャファートの巻頭言が直接トリガーとなった訳ではないが、将来事業の研究開発を託された研究開発者達は、我が意を得たりとばかり勇気付けられた。パーソナルコンピューターが社会に認められ、他業種を含めてデジタルに寄せる期待が大きく、それに挑戦する意欲も高い時代であった。
また日本バブル経済へと突き進む社会環境にあって、技術開発部門には楽観的開発投資が許され、競争優位なデジタル複写機を目指した開発が行われた。今これを振り返るとデジタル技術による複写機の再発明であったとも言えるが、当事者達はそのように冷静ではなかった。
ハノーバーメッセ 1980 年 CeBITにてリコーは Image Editing System GT1000を出展した。技術本部の河津元昭プロジェクトリーダーの下、荒巻和男が機構設計、川村篤がレーザー光学系の設計にあたった。川村の設計による fθレンズ光学系はリコーの高級機に使われ、デジタル光学系の規範となった。これがデジタル複写機の始まりである。1982 年に RICORE3000として発売した。高額商品であり用途開発を探し求めた。大手百貨店、貿易、運輸などの物品の送り状作成の省力化、役所の戸籍抄本発行などの特定業務で活用された。
図 7.1 に外観を示すが、価格¥9, 900, 000であり、その製造原価の大半は、画像編集コントローラ部の DRAM(Dynamic Random Access Memory)が占めていた。解像度 300 dpi(dots per inch)で画像処理に使う画像メモリー量は 1.6 MBで 800 個の DRAMが必要になった。1981 年は 16 Kbの DRAMチップが標準であり、IBMPC(Personal Computer)には 8~ 64 個の DRAMが搭載されていた時代である。
図 7.1 界初デジタル複写機 RICORE3000 2)
1984 年にはキヤノンからレーザーコピアシステム NP9030が¥1, 980, 000で発売される。この複写機は原稿スキャナーとプリンター部が分離していた。A4サイズで 30 cpmの複写速度であり、RICORE3000と同様に、縦横独立変倍など様々な画像編集機能が使えた。基本システムでは比較的購入しやすい価格設定で、システム拡張によってデジタル機ならではの仕様増強ができた。スキャナーで読み取った画像データを RMU(Retention Memory Unit)に格納すれば多数枚コピー時、再度のスキャンが省かれた。そうした場合 A4サイズで45 cpmまで増速できた。さらに付け加え MCU(Multiple Control Unit)を経由して4台のプリンターを並設すれば、45× 4 = 180 cpmという超高速の複写システムとなった。このように、オプション別売にして、仕様の割に高額になってしまうデジタル複写機を売りやすくしたのであった。
複写機をデジタル化することによって画像編集機能やシステム拡張が可能となった。しかし同価格帯の既存のアナログ複写機は、はるかに高速で、ADF(Automatic DocumentFeeder)、丁合機(sorter)、ステープラー(stapler)など周辺機との協調動作も洗練され便利で、生産性も高かった。基本性能面でも文章、線画の画質はアナログ機に劣っていた。前述の製造原価のためにデジタル機の場合、搭載できるDRAM容量は制限された。原稿スキャン解像度は最大でも 400 ppi(pixel per inch)、階調数 8 bitであった。デジタル画像特有の文字や線画部のギザギザ(jaggy)が目立ち、先進的な複写機からのコピー仕上がりだと自慢できる水準ではなかった。
複写機開発部門の守旧派からは、デジタル化に対して抵抗する動きがあった。顧客の立場から見てデジタル化コストに見合う実用的性能・機能が得られなかった。事業の採算を全く考えていない研究所側の趣味道楽だとばかり、辛辣な批判もあった。
複写機のデジタル化については、前節からわかるように、電子写真の露光部に関して、従来の光源・レンズ光学系をレーザー走査光学系に入れ替えたものである。デジタルの場合は、原稿を読み取るスキャナーも必要である。
あらゆる画像情報がデジタル化された世界で暮らす今日の若者は 1980 年代のデジタル複写機をデジタル・デバイスとは認めないだろう。なぜならばデジタル複写機は内部の画像データ処理はデジタル形式で処理されていたとしても結局は「アナログ情報」の紙プリントとして出力されるのであった。
日本のデジタル複写機発売から遡り 10 年前の 1973 年に、米国ゼロックス社の R.B.ルイス(Richard B. Lewis)は電子写真画像形成プロセスとデジタル画像形成プロセスの本質について次のように基調講演している 3)。図7.2は電子写真を含む各種の画像形成プロセスのブロック図を示している。長方形枠は「像」であり、楕円形枠が(像変換器・技術)である。縦の破線より左は2次元プロセスであって、電子写真は左端の下から上に伸びる矢印で示される。破線より右は1次元プロセスである。1次元の像変換器・技術は電気的時系列像、言い換えればラスター像(rasterimage)を平行等間隔で並べることにより2次元画像を形成する。
図 7.2 各種の画像形成プロセス・ブロック図 3)
本章で説明するデジタル複写機をこのブロック図で解説すると以下の通りである。2種の括弧「」()は「像」(像変換器・技術)と区別した。
「原稿像= physical original」は(照明結像光学系= illumination& imaging optics)で「光像= photonimage」となる。図の破線の下から2番目の楕円枠(CCD等イメージセンサ= self-scan photoconductor arrays)で「電気的時系列像= electrical time series」が生成される。そのラスター像は(走査光学系= photon spit)により、「光像= photon image」となって(電子写真感光体= photoconductor)に照射される。そのあとは2次元の電子写真プロセスが行われて「複写画像= output physical image」が得られる。
つまり、「光像」を2次元照明結像光学系で作るか、 1次元走査光学系で作るかの違いである。結論を言えば、「光像」から出て「光像」に再び戻るのだから電子写真プロセスをデジタル化したことにはならず、「光像」の段階で2次元と1次元の往復の無駄足を踏んだことになる。7章 1節の「採算を全く考えていない研究所側の趣味道楽」は的を射た批判であった。当時の複写機の稼働品質問題のほとんどは、図 7.2 の「光像」を受けた感光体からコピー出力の間のプロセス・材料技術に起因していたこともデジタル化への期待に水をさすものであった。
米国ゼロックスは、1980 年代には複写機のデジタル化には全く興味がなかったようだ。この事を 1970 年初期から達観していたのであろうか、後になってデジタル複写機を開発したのは富士ゼロックスの日本の技術者達であった。
参考までに図 7.2 のブロック図の有用性を以下に記す。図の2次元上部の(tesi)は、5章 1.1で説明したミノルタの潜像転写方式複写機EG101のプロセスが対応している。同様に右の(ion projection)は、6章 3.2で取り上げたキヤノンのリテンション方式複写機 NP-8500のプロセスがこれに該当する。言うまでもなくこれら2機種は、2次元の電子写真アナログプロセスであった。ついでにキヤノンが 1988 年に発売した A1サイズのカラー複写機 CBC-1はインクジェット方式を用いた。図の破線最上部の(ink spit)生成技術に、同社発明のバブルジェットヘッド技術が用いられた大判デジタル複写機である。
このブロック図は、数 10 年経っても陳腐化しない普遍的で饒舌なチャートである。筆者は様々な局面でこれを引用したが、さほどに共感を得られなかったのが多少残念であり、再掲して国立博物館の複写機産業技術史に残したい。
RICORE3000発売から5 年後の 1987 年に、リコーは本格的普及クラスのデジタル複写機を発売した。デジタル複写機市場をリードするようになるこの商品は杉本義和が企画した。複写機としてアナログ機にはない多彩な画像編集機能を持たせた。また将来を見据えた他のデジタル機器との連動機能を組み入れた。そして汎用複写機として普及させるため価格は¥1, 000, 000以下とした杉本の企画仕様が見事にヒットしたのである。
図 7.3 に断面構造を示すが、従来のアナログ機の原稿照明光学系と画像形成エンジン系の間にレーザー走査系が割り込んだ形のレイアウトである(図 6.38 参照比較)。IMAGIO320では原稿読取スキャナー部とプリンター部との間の制御を上手に行った。そしてファクシミリ、プリンター、フロッピーディスク、さらには大容量光ディスク・ファイルのプラットフォームとなるアーキテクチャーにした。また低コスト化のため出来る限りアナログ複写機との部品共通化を図った。主要な画像処理回路をASIC(Application Specific IntegratedCircuit:特定用途向け集積回路)化した。このことで、デバイス同士の接続箇所を減らし実装面積縮小によって量産コストを大幅に低減できた。画像処理のノウハウなど秘密としたい回路構成を隠すこともできた。
図 7.3 デジタル複写機 IMAGIO320構造図 4)
レーザー走査光学系も長尺シリンドリカル・レンズを円環状となし、これを凸面と凹面で構成する発明をした。BTL(Barrel Troidal Lens)と名付けた長尺レンズのプラスチック成型を行い像面湾曲を補正し低コストを両立させた。図 7.4 手前は BTL精密プラスチック成形部品、奥が走査光学系モジュールに BTLが組み付けられた状態を示す 4)。
この頃には、感光体に負帯電型の OPCがかなり使われていた。対応トナーは正帯電になるためアナログ複写機では現像剤の特性安定、寿命問題があった。デジタル複写機では、アナログ機とは逆に、露光部にトナーを現像する反転現像(reversal development= discharged area development)が有利である。このことが幸いして、リコー F/Fエンジンで継続的に用いられ改良されていたF現像剤が適用できた。このことは市場での画像形成エンジンの稼働品質を高めるのに貢献した。なお電子写真の反転現像は、現像ローラー(電極)を未露光部表面電位と略同電位にして露光部との電位差をつくり、感光体帯電極性と同極性のトナーで現像するものである。F現像剤では負帯電トナー電荷制御する鉄アゾ錯体染料 CCA(Charge Controll Agent)で安定した帯電特性が得られていた。そのトナーがそのまま転用できたのである。
図 7.4 レーザー走査系とプラスチック BTL4)
追記可能な光ディスクを大容量メモリーとして、文書や図面などイメージ情報の保管・検索を目的にした光ファイルシステムが 1985 年頃には注目された。増加し続ける紙文書、マイクロフィルムを置き換えペーパーレスを目指すシステム構想であった。デジタル複写機 IMAGIOは企画構想段階から、その I/O(Input/ Output)デバイスとしての切り口を持たせたので大手コンピューターメーカーの光ファイルシステムを大幅にダウンサイジングして普及を加速することができた。
膨大な紙文書を光ディスクにデジタル化して保存する構想は、今日的に考えればデジタル複写機の究極の姿であり、オフィス業務の紙依存を減らし、ペーパーレス・オフィスのトリガーになっていたのかも知れない。しかし当時は、製造原価に占めるメモリーのコストが膨大で、今日のタブレットのようなスマート・デバイスは夢でしかなかったと後継機のプロジェクトリーダーを務めた田川和明は振り返る。大型CRTディスプレーは嵩張り解像度も不十分であった。インターネットのデジタル通信インフラも未整備な環境では、光ファイルの普及は限定的であった。このことが幸いしてデジタルにより複写機を再発明するための時間と資金が確保されることにもなったと言える。
デジタル複写機は、アナログ機に比べて製造原価は高かったが、デジタルの多機能性や利便性をセールスの際に面白くデモすることができた。競合他社製品もなく、気に入ってくれた顧客には、値引きなしで売れたので利益率も高かった。
画像要素をデジタル形式にすれば階調補正、色補正が正確に行える。第一番目に階調再現・色再現を求められるカラー複写機をデジタル化するのは実に合理的な考えであった。最初は機構が白黒デジタル機に近い感光体1ドラム型から開発が始まり、白黒、カラー同速度の4ドラムを用いるタンデム型へと移行していった。
キヤノンはカラーレーザーコピア"CLC-1"と名付けた本格的デジタルカラー複写機を 1987 年に¥3, 880, 000で発売した。電子写真のアナログカラー複写機で、リコーカラー 5000「極楽鳥」は、トナー新規顔料の採用で色域を拡張し、ガンマ重畳法なども発明して相当の階調再現レベル達していた。しかしデジタル機の階調性、正確な色再現性、プロセスの安定性、色変換・編集機能などには及ばなかった。
図 7.5 に内部構造を示すが、東芝製の等倍カラー CCDセンサーがキーデバイスの1つである。原稿は 400 ppi(pixel per inch)の分解能で色分解されたR, G, B 3原色を8bitの階調深さで読取られる。 R, G, Bデータを適宜デジタル処理して、トナー色材の M, C, Y, K(Magenta, Cyan Yellow, Black)の4 色のデータをプリンター部に送り、感光体ドラム上に順次トナー画像を作る。転写ドラム上に巻きつけた用紙に4 色分のトナー画像を静電転写にて重ねた後、定着してコピーがでてくる。
図 7.5 デジタルカラー複写機 CLC-1構造図 5)
6章 3.1で説明したように、ドラム感光体を用いたカラー電子写真の場合はドラム径が巨大になる。キヤノンはロータリー現像機を開発して感光体ドラム径を白黒複写機並みに小さくした。しかしロータリー回転軸の中に4 色のトナーパイプを実装して各々の現像機に補給する機構は複雑であった。現像は2成分ジャンピング方式である。現像剤キャリアを疎らに磁気ローラースリーブ周囲に磁気吸着・回転させて、現像ニップ(nip)部で ACバイアスを印加してトナーを振動させて現像した。
画像プロセス方向に平行な 200 (line/inch)の万線スクリーンで階調再現した。オフセット印刷の網点サイズによる面積階調再現とは異なっていた。電子写真の現像特性を良く理解して、レーザーのパルス幅変調を取り入れたもので 400 dpiのプリンター・アドレス能力を上手に補完していた。絵柄部のコピー画質は高く評価されたが、文字、線画部は解像度が 200 dpi相当で不十分であった。原稿の領域を指定して画像処理(像域分離処理)し階調性より解像度を優先する画像処理をして問題解決した。
オプションのフィルムプロジェクターで 35 mmフィルムからのカラーコピーもできた。複写速度はフルカラーで 5 ppm、モノカラーで 10 ppm(page perminute)であった。このカラー複写機は、デザイン事務所などから好評を博し、画質と速度を向上させながら、1ドラムの技術構成で数世代に渡り後継機が製造された。
CLC-1の発売から7 年後の 2004 年に発売された Color image RUNNER iR C6800は一般オフィス業務関係者を主要な顧客層と決め、価格を¥2, 550, 000とした。白黒コピー頻度が高いと想定し 68 cpmの速度で、黒色については磁性トナー1成分ジャンピング現像機を据え置きにした。高耐久の a-Si(amorphous Silicon)ドラムをカラー機では初めて起用した。Y, M. Cカラー現像機はロータリー形式に設計したが、トナー補給は、ロータリー機構の中に細長い3 色のカートリッジを直接挿入する形式に変更している。図 7.6 にロタリー現像機構を含む画像形成主要部を示す 6)。(図中説明の一部は筆者が追記した)カラーの現像は2成分であるが、高抵抗・低磁化のキャリアで画質を改善した。カラーは 15.5 cpmの速度であり、磁性白黒トナーの無光沢に合わせ、懸濁重合法で造粒された低光沢ワックス内包カラートナーを用いた。事務用途のカラーコピーでは再現色域は多少制限されても、艶消しのマットタイプ(matt type)で、オイルレスの定着が実用的だと判断した。
図 7.6 オフィスカラー機 iR C6800画像形成部 6)
松下電器(現・パナソニック)㈱は FP-C1というデジタルカラー複写機を¥2, 200, 000の価格で 1988 年に発売した。IOI(Image On Image)とも呼ばれる方式である。この複写機の電子写真画像形成部を図 7.7 に示すが、転写ドラムを用いないで Seドラム感光体上に Y, M, C, Kの4 色のトナー像を重ねて形成する。そのため色ズレが極小化でき、コンパクトな構成にできた。一般事務用に使える仕様で、コピー速度は単色で A4サイズ 30 cpm、カラーで 5 cpmの高速を達成した 7)。
イメージセンサーは自社開発のバイポーラ ICの集積回路で、297 mmに 4, 864 個のフォトトランジスタアレー4列とその走査回路を集積したセンサー・デバイスである。4列のうち3列に色分解用の R, G, Bフィルターが取り付けられ分解能 400 ppi(pixel per inch)で 8 bitの階調深さで読み取られる。
図 7.7 松下・デジタルカラー複写機 FP-C1の画像形成部 7)
現像については黒現像は2成分接触方式、カラーは非接触絶縁性非磁性1成分現像で直流電界飛翔方式とした。
コニカは松下の FP-C1の 1 年前 1987 年にコニカ 8010を発表していて IOI方式では先行していた。 KNC(Konica NewColor)と呼び、読み取り部でカラー原稿を赤とシアンの2 色に色分解する。これをデジタル処理して赤、青、黒の3 色に色判別して出力するファンクショナル・カラー(functional color)といわれるものである。当時のオフィス文書はカラー化は進んでおらず、3 色の識別カラーで十分であると考えたのである。マーカーペンを用いる黒原稿の色変換機能が提供されている。橙または青のペンで原稿の領域指定すると対応部が赤または青に色変換されてコピー出力される。複写速度は A4サイズ 11 cpm、カラーで 3 cpmであった。現像は2成分非接触で 1.4 kVp-p, 4 kHz ACバイアス重畳された反転現像を採用した。
そして同様なコンセプトで 1990 年にコニカ 9028が発売された。複写速度は A4サイズ単色 28 cpm、カラーで 6.5 cpmであった 8)。同社は他にないプロセスを採用したのだと言った。図 7.7 と図 7.8 を比較すれば判るように、松下 FP-C1も同じ IOI方式である。全く事業構造の異なる両社で、同時期に類似の商品コンセプトで開発が進んでいたことには注目すべきであろう。
松下、コニカともに一般事務用コピーを重視したコンセプトで、色再現よりも解像度を優先した。またカラートナーのバインダー樹脂には定着後、艶消しのマットタイプが採用され、オフィス文書には好適であったがカラー写真など絵の再現のための色域は不十分であった。このコンセプトは、前記のキヤノン iR C6800と実施時期は5 年違うが考え方は共通点がある。
図 7.8 コニカ・KNC-9028の電子写真部模式図 8)
当時のコニカは銀塩写真フィルムや印画紙の感光材料を多く生産販売していたので印画紙を用いたカラー複写機も発売した。同社にとってはデジタル技術を使ったとしても、電子写真方式でのカラーコピー画質には、さほどの期待はなかったと推察される。
リコーは、電子写真アナログカラー複写機の「カラー 5000」でコピーサービスショップ、複写・軽印刷業者で稼働実績を挙げ良い評価を受けていたが市場は限定的であった。市場で稼働中の汎用白黒複写機を置き換えられる、カラー機能も付加された複写機を営業部門、経営トップは望んでいた。白黒複写機能が主で未開発のカラー用途をオフィス市場で開拓していく1台2役のアナログ機のコンセプトを新規企画し商品化していた。1989 年の Artage 5330であり、白黒 24 cpm、カラー 4 cpm、¥1, 380, 000で発売した。
新設された画像技術研究所の所長坂巻資敏は来るべきマルチメディア時代に対応すべく、デジタル画像技術の研究開発を最重要の方針に掲げた。研究所にデジタルカラー電子写真の研究開発プロジェクトが設置され、筆者はそのリーダーとなった。
カラー電子写真は、基本的に Y, M, C, K 4 色の画像形成プロセスを行う必要がある。1本の感光体ドラム上で同プロセスを行うと、4回転毎に 1枚のカラー画像が得られるので、速度は 1 /4に落ちてしまう。前述の 7.4.1、 7.4.2の感光体ドラムを1本用いる方式ではなく、感光体ドラムを4本用いることで将来の高速化に対応できるように思い切って決断した。長谷部光雄の勇気ある戦略志向もこれを後押しした。カラーの場合、変動要因が多くて複雑であり、感光体ドラム1本構成でも安定制御に苦労していた時代である。複写機の革新に向けて鼓舞する坂巻も含め事業部の技術陣は4ドラム方式の選定を心配していた。
図 7.9 に示す4ドラムカラー電子写真主要構成部は、リコー ARTAGE8000で 1990 年に発売され世界最高速の 15 ppmの複写速度を実現した。図 7.10 には、1モーターによる4ビームレーザー光学系を、図 7.11 には1モーターで4ドラムを同期駆動する精密研削ウォームギア機構系を示す。価格は¥3, 680, 000であったが、競合他社を意識した販売側からの価格設定であった。4ドラム複写機の場合は、読み取った原稿データをメモリーに一旦保存し、プロセスの進行に従ってデータを適宜レーザー走査光学系へ送出する遅延メモリーが必要になる。その節約のためφ60 mmの OPCドラム4本を110 mm間隔にできるだけ狭く配置することにした。半導体メモリーは、1987 年頃の 1 Mb(megabit)の DRAMで$20USDであった。 A4サイズのメモリー量は 400 ppiの 24 bitカラーで48 MB(megabyte)にもなりメモリーコストだけでも$7, 680USD(円換算では¥1, 075, 200:¥140 /$1)となり、汎用白黒複写機の定価レベルまでになってしまった。そこで再現階調数と解像度を妥協して遅延メモリー量を 18 MBまで節約したのであった。このメモリー節約の判断と、現像剤に導電性鉄粉キャリアを用いたことなどが画質と安定性の課題を残した。
図 7.9 リコー4ドラムカラー複写機 ARTAGE8000主要部構成9)
図 7.10 4ビームレーザー走査光学系9)
図 7.11 4ドラム駆動機構系9)
勝俣秋生がプロジェクトリーダーを務め2 年後の 1992 年にこれらの課題を解決したのが図 7.12 に示す PRETER750である。トナー粒径を 6.5μ mに細かくし角取り処理を施し流動性も上げた。小粒径コートキャリアーを採用し、トナー大量消費に対応する現像剤攪拌の新機軸も追加した。プロセス制御は複数の中間調カラーパッチを形成・検出し、感光体帯電電位、現像バイアス、トナー濃度を制御しハイライト部からシャドウ部までの再現性と安定性を向上させた。年々コスト低下していくのでメモリー容量も 64 MBと大容量に増設し、階調数を節約せず、24 bit colorを正しく描き出し、複数の画像編集・合成もできるようにした。以上のようにプロジェクトサブリーダーの朝田賢一郎は電子写真学会誌にて解説論文を発表している 10)。
図 7.12 リコー・PRETER750外観 4)
感光体ドラムを4連タンデム(tandem)配列にして白黒とカラーの速度を同速にする基本構想の実証には4 年を要した。その要素技術のひとつである真間孝が設計した4ビームレーザー走査光学系は、30 年経った今日も使われている。図 7.13 には速度 A4サイズで 75 ppm(prints per minute)カラープロダクションプリンター Pro C751EX/C651EX(2011 年発売)のレーザー走査光学系にも搭載されていることを示す 11)。佐藤俊一が発明、実用化した 40チャンネルの図 7.14 に示す VCSEL(Vertical Cavity Surface EmittingLaser)により波長780 nm帯で 4800 dpiの密度で 40ビーム同時書き込みしている 12)。
図 7.13 40× 4ビームレーザー走査光学系 11)
図 7.14 780nm/40ch VCSEL断面構造 12)
現在では複写機、プリンター業界ではカラー電子写真の標準的な構成として4連タンデム配列は広く採用されている。
電子写真・間接乾式法の大御所である米国ゼロックスは複写機のデジタル化には、前記 7.2に説明したように乗り気でなかった。富士ゼロックスの親会社の富士写真フイルム(現・富士フイルムホールディングス)㈱の本庄知は電子写真を、消費者向け写真プリントサービスに応用するのは無意味だと持論を展開していた。乾式電子写真は画像構造、特に表面性が本質的に違っていて、トナー画像はオーラ(aura)を放つ銀塩印画紙プリントとは別物で愛着がわかないものと写真・画像関連学会の論壇で主張していた 13)。
しかし同社も、もはや電子写真デジタルカラー複写の潮流に逆らうことはできなかった。複写業界のカラー化の動きに対応すべく業界最高水準のカラー複写機としての写真再現、文字線画再現を目指して A-Colorは開発された。富士ゼロックス A-Color 635 /630は 1992 年に発売され価格¥2, 280, 000~¥2, 680, 000であった。図 7.15 に概略構成を示すが感光体1ドラムでロータリー現像機を採用しキヤノン CLC-1と左右対称で良く似ている。図7.16に示すようにキヤノンとの外観の違いは給紙カセットが全て引き出し式で機内に収納され、大サイズの原稿を広げられる天板も付いていて機能的で美しい意匠設計となっている。複写機の設置環境と使われ方をよく知る富士ゼロックスであった。
図 7.15 富士ゼロックス A-Color 635 /63014)
図 7.16 富士ゼロックス A-Color 635外観 15)
読取解像度は 400 dpi、A4サイズは 6 cpmのカラー複写、単色では 36 cpmと高速である。銀塩写真、網点印刷の長い経験に基づく評価技術を駆使して高い目標を設定した。従来の競合のカラー複写機は背景部のカブリ(紙白汚れ)を嫌って、原稿の網点面積率が 20%以下のハイライト部分を飛ばしていたが、これを10%として自然な階調性を得た。競合のカラー複写機の原稿とコピーの色差はCIELABΔE16)で5程度であり、時間と空間を置いて比較した場合にほぼ同一と認められるレベルであった。それで肌色再現も考慮して CIELABΔEで2~3以下が望ましいという画質設計方針を決めた。それでも原稿種類でコピー結果が満足できず、文字/写真、文字、写真、地図の4つのカテゴリーに分けてユーザーが選択できるモードを設けた。画像の精細度を高め粒状性を高めるために粒径7μmのトナーを用い現像ニップ部のギャップを狭くして、 ACバイアスを印加して現像効率を高めた。これらの顧客のカラー画質への要求品質を満足させるにはアナログ白黒複写機に比べてその難度は6倍にもなると仲谷文雄は想定している 14)。
従来のオフセット印刷では階調画像の場合は網点サイズを変化させる面積階調法が普通に使われてきた。デジタル化初期の電子写真の階調再現技術も印刷の伝統的技法を学んで取り入れていた。しかしミノルタはデジタルカラー複写機の階調再現に印刷で使われてきた面積階調法を用いなかった。先行他社は面積階調法に類似した方式をとっていた。しかしカラー複写の原稿は、写真と文字部が混在したものなど多種多様であった。前述のA-Color635のように原稿種類に応じて階調優先か、解像優先かで画像処理条件を変える必要があった。
LIMOS(Laser Intensity Modulation System)と名付けた方式を用いて 1990 年に、ミノルタは CF70を発売した。400 dpiの解像度をもち、カラー7cpm、モノカラー 13 cpmで、画像部に網点をかけないアナログ調で高精細なコピーが特徴であった。
図 7.17 の上段に代表的な階調表現方式とそれに対応する再現文字「50」の出力例を下段に示す。左側の面積階調法は、網点法(halftone dither)とも言われ、この場合4×4= 16階調が再現されるが解像度が1 / 4に低下する。中央はキヤノン CLC-1などで使われた書き込みレーザーのパルス幅変調方式を用いた万線スクリーンである。解像度低下は1 / 2であり比較的よくなる。右側は1ドット毎にレーザー強度を変調するので解像度と階調数が両立できるというのが LIMOSの特徴である。
図 7.17 代表的階調表現方式と画像出力例 17)
通常の乾式電子写真の応答特性は銀塩写真と大きく異なり、ガンマが高くて硬調な再現となる。図 7.18 には階調補正の概念を示している。画像入力データをそのまま出力した場合は破線の S字型になりガンマは高く、良い階調・色再現は望めない。目標のリニアー(linear)な実線にするためにレーザーの強度を補正する。図中の A点を A'に補正するには A'点と同濃度の A''点のレーザ露光量 P(L1)を画像データ L1に対応して出力すれば良い。同様に B点を B'点に補正するには P(L2)を出力すれば良い 17)。このようにして1画素ごとにレーザー露光量を制御すれば、理屈上は解像度は 400 dpiのままで階調補正、色補正が行うことができる。
図 7.18 LIMOSでの階調補正概念図 17)
ところで面積階調法は電子写真で用いた場合も電子写真のプロセス・パラメータに影響を受けにくい性質がある。それは通常の電子写真が入力レベルに対して 2値的な出力をする性質(高ガンマ特性)に起因している。しかし LIMOS方式では、潜像電位に応じた現像トナー量を期待する濃度階調法になるのでプロセス・パラメータの最適化と安定化を極めて厳しく求められる。服部好弘は総合的なプロセス制御システムを構築して課題を解決した。全体の画像安定化システムは図 7.19 のブロック図に示す。現像は MT(Micro Toning)方式で、エレベータ式移動で M, C, Y, Kの現像機が上下して各色の現像を行う。例をあげてセンサー・制御系について説明する。
図 7.19 ミノルタ CF70の画像安定化システム 18)
図中の M, C, Y, K現像剤のトナー濃度を制御する ATDC(Auto Toner Density Control)と現像されたトナー量を制御する AIDC(Auto Image DensityControl)でなどで構成した。さらに湿度センサーも用いて転写プロセス以降の画像を安定化させるなど、良く考慮された総合的プロセス制御システムを実装していたのである 18)。
第6章 7.4で述べたキヤノンの卓上レーザープリンター LBP-CX・後継機シリーズは OEM先の HP社と共に大成功をおさめ世界市場を支配していた。電子写真画像形成モジュールをカートリッジ化する事で、ユーザーがトナーを使い切る度に同モジュールが更新された。そのため複写機のような保守サービス網が不要で販売後の手離れが良く世界各地域で販売量を伸ばせたのである。
しかし環境保護、省資源の面から大きな疑問がありランニングコストも割高となると真正面から問題指摘する企業が現れた。1992 年に京セラコミュニケーションシステム(現・京セラドキュメントソリューションズ)㈱は 10 ppmの卓上機 FS-1500をドイツで DM6, 000で発売した。当時の為替レート¥80 /1DMでは¥480, 000であった。日本国内向けは L-1500であり、ランニングコストはカートリッジ式の 1 /10で¥0.6 (A4 / 5%画像面積)という画期的経済性であった。世界で最も厳しいドイツ環境省の環境基準 Blue Angelを取得した。キヤノンのカートリッジ式プリンターを自動車にたとえると、ガソリンを使い切ったらエンジンとガソリンタンクを一緒に交換している様なものだとも言って環境保護と経済性を訴えた。当時のクラス世界最小サイズ(W345× D350× H220 mm)に設計した。同社開発の小口径φ30 mmの a-Siドラムで 300 K枚プリントしても磨耗率は1%未満、ドラム上の帯電生成物は研磨粒子を添加したトナーによって除去した。露光は同社開発の 300 dpi/LEDヘッドにより 300× 1200 dpiの解像度の潜像を形成した。2成分磁気ブラシ現像方式であるが、300 Kの長寿命をノンコートキャリア、樹脂キャリアの組み合わせで達成している(図 7.20)。
図 7.20 ECOSYS FS-1500の構造と外観 19)
環境対応とランニングコストは革新的ではあったが、パーソナル向け卓上プリンターの生涯プリント量は高々 50 K枚であった。また PC(パーソナルコンピューター)の価格が急速低下していく市場では初期コストの安いカートリッジ式が選択される傾向があり普及は限定的であった。それでも同社は ECOSYSコンセプトを貫き、2003 年に¥278, 000で発売したクラス世界最小4ドラムカラープリンター ECOSYS LS-C5016N、A4 /16 ppmほか MFPにも展開され製品の基軸設計として生かされ続けている。
アナログ機はその生産性と信頼性を顧客に評価されて、デジタル機が主流を占めるようになる 2000 年の初めまで健闘した。
デジタル技術を導入することで複写機の高機能・多機能化、カラー化は進んでいった。しかし汎用白黒アナログ機、軽印刷業者向け白黒高速機の新規開発がなくなったわけではない。白黒のデジタル複写機は、普及・中量層では同クラスのアナログ複写機と部品、モジュールを共通化するような戦略をとった。そうすることで設計生産の効率を高め、調達部品コストを低減できた。リコーの場合、デジタル機には、imagio、アナログ機にはSpirioというブランドを冠していた。高い生産性を求められる超高速複写機は依然アナログ方式が主流であった。
キヤノンは京セラ㈱と共同開発した高耐久の感光体である a-Si(amorphous Silicon)ドラムを高速機クラスで用いた。1990 年には 85 cpmの速度の NP9800を価格¥4, 800, 000で発売している。
コニカは、1994 年に 92 cpmの U-BIX6192を発売している。新技術の採用で高速・高耐久を極限まで追求した大企業オフィスビルの各階に設置されるフロアー・センターマシンである。自動原稿送りの RADF(Reversible Automatic DocumentFeeder)をもち大量コピーの仕分けはもとより製本まで自動処理するステイプル・ソーター(staplesorter)も標準装備していた。
富士ゼロックスは、リコーと同じようにデジタル機には Able、アナログ機には Vivaceというブランドを冠していた。自社開発による 72 cpmの Vivace 720を 2000 年に発売している。日本国内の一般電源 100 V/15 Aで稼働するのを特徴とした。3, 100枚収容の大容量用紙トレイと3段の 650枚給紙トレイを標準装備していた。ステイプル・ソーターを使用することで、後処理も含めた大量コピーにも高い生産性を発揮した。独自品質保証基準に基づいたリサイクルパーツを使用し使用率 45%以上であった。
リコーが 1989 年に発売した 101 cpmの超高速アナログ白黒複写機は、自社開発 OPCベルト感光体を用いていた。フラッシュ光源で原稿像を感光体平面部に露光し3本の磁気ブラシ現像機で現像していた。図 7.21 に外観を図 7.22 に内部構成を示す。大量コピーにおいては、複写速度だけではなく給紙・搬送の信頼性、画質の長期安定性、耐久性が求められる。図 7.23 に示す原稿循環機能をもつ ADF(Automatic Document Feeder)を標準装備して本体の 101 cpmに同期させる原稿の高速ハンドリング機構を持っていた。DCサーボモーターで高速搬送(900 mm/sec)、減速、スイッチバック、原稿位置決め制御を完成した。
図 7.21 リコー超高速複写機 FT9100外観 2)
図 7.22 リコー超高速複写機 FT9100構成図 2)
図 7.23 超高速原稿循環機能 ADF構成図 20)
超高速複写機では長期間稼働することが多く電子写真画像形成部の特性に変化が起こる。OPC感光体、現像剤などの繰り返しストレス、トナー、紙粉汚れなどである。また温度・湿度の環境変動でも問題が起こる。OPC感光体上の潜像電位を高速応答の表面電位計で計測フィードバックしている。図 7.24 に示すように画像黒部に対応する潜像電位、同白部の潜像電位を狙いの計測値と比較する。その差に相当する量を帯電グリッド電圧、露光フラッシュ電圧にて補正するなどである。また、OPC感光体上に形成されたパッチ像を光電検知して現像剤のトナー濃度を調整・制御する。このように潜像系、現像系それぞれの特性を安定化させることで長期間にわたって画質を安定に保つことができたと電子写真プロセスのリーダーを務めた宗宮徳昌は報告している 20)。
図 7.24 FT9100全自動電子写真プロセス制御図 20)
参考・引用文献
1) | Roland M. Schaffert"Electrophotography and Digital Imaging" Ricoh Technical Report No. 6,p.1 (1981) |
2) | 社史編集委員会"リコー 60 年技術史"㈱リコー, 東京(1996), pp. 194, 162-165. |
3) | R i c h a r d B. Lewis"Remarks on Electrophotographic Systems" SPSE 2nd International Conferenceon Electrophotography, p.2 (1973) |
4) | 社史編集委員会"リコー 60 年技術史"㈱リコー, 東京(1996), pp.198, 267, 305 |
5) | キヤノン㈱提供, カラーレーザーコピア PIXEL CLC-1販売カタログ, 東京(1987) |
6) | 舛田恒司"フルカラー複合機キヤノン iR C6800の採用技術"日本画像学会誌, Vol. 45, No. 2, p.79 (2006) |
7) | 森本敏夫ほか"松下・デジタルカラー複写機 FP-C1"電子写真学会誌, Vol. 28, No. 4, pp. 62-65 (1989) |
8) | 江田研一(コニカ)"コニカ創業 120周年を記念し、複写機開発の歴史を探る" Konica Technical Report Vol. 6, pp. 15-16 (1993) |
9) | K.Hirakura et al."Four Drum Digital Color Electrophotographic System", IS&T, InternationalCongress NIP7, pp. 49-55 (1991) |
10) | 朝田賢一郎"リコー・PRETER750"電子写真学会誌, Vol. 32, No. 2, pp.80-83 (1993) |
11) | 近野久郎 他"カラープロダクションプリンタ RICOH Pro C751EX/C651EX" Ricoh Technical Report No. 37, p.146 (2011) |
12) | 軸谷直人他"プリンタ用 780nm帯 40ch光書き込み VCSELアレイの開発" Ricoh Technical Report No. 37, p.76 (2011) |
13) | 本庄知"写真について"日本画像学会誌, Vol. 39, No. 2, pp.2-10 (2000) |
14) | 仲谷文雄"富士ゼロックス A-Color 635 /630"電子写真学会誌, Vol. 32, No. 2, pp.74-79 (1993) |
15) | https://www.fujifilm.com/fb/company/news/image_library/detail/_imgid_000179 (accessed 2021-8-23) |
16) | CIELABΔEは、国際照明委員会 CIE(Commission internationale de l'éclairage)が 1976 年に推奨した知覚的に均等な色空間における直線距離である |
17) | 福井一之他"高性能画像再現システム LIMOS" MINOLTA TECHNO REPORT, No. 8, pp.21-28 (1991) |
18) | 服部好弘他"CF70における画像安定化方法" MINOLTA TECHNO REPORT, No. 8, pp.29-36 (1991) |
19) | 京セラドキュメントソリューションズ㈱提供 |
20) | 石井泰明, 宗宮徳昌他"超高速複写機リコピー FT9100システム" Ricoh Technical Report No. 20, pp.82-88 (1990) |
最初の発明者への敬意
米国ゼロックスは言うまでもなく電子写真・間接乾式複写機の創業者であり、1960 年代から技術と市場を支配してきた。しかし1980 年を過ぎると日本の複写機メーカーから学ぶことも少なくなかった。筆者は国際会議の帰途に、電子写真現像関連技術の講演スライドを携えて訪問したことを思い出す。ニューヨーク州ロチェスター市の東にあるWilson技術研究所(Wilson CenterResearch/Technology)でSeniorResearch FellowのDan Haysが同所研究員を集めワークショップを開催してくれた。Haysは同社で現像の第一人者であり、理想的現像方式SD(ScavengelessDevelopment)を発明している。
研究所内を見せてくれた際に、Carlsonが電子写真を発明した1938 年の直後に試作した複写機のレプリカが展示してあった。オリジナル発明者とともに、勇気とビジョンを持った地元中小企業のWilson社長が、その発明を非常に収益性のあるビジネスに成長させた。最初に井戸を掘った人の名前を忘れないように残すと言う気風が、アメリカの成功物語の背景にあると感じる。筆者は電子写真画像形成への科学技術貢献で2003 年のCarlson賞をIS&T(Society for Imaging Science andTechnology)より受けたが、同複写機のイラストが刻まれている。
Dan Haysと筆者:Xerox Wilson Center Res./Tec.
Carlson Memorial Award 2003
半導体、情報通信、2次電池、ソフトウエア、そして FPD(Flat Panel Display)など周辺技術を含む ICT(Information& CommunicationTechnology)の革新が 1995 年頃から加速した。新聞、雑誌などの紙メディアの発行部数低下に比べれば、一般オフィスでの複写機、プリンタ出力は減少することなく続いたが、次第に成長は鈍化していった。図 8.1 に1990〜 2020 年の 30 年間の日本の普通紙複写用紙(PPC: Plain PaperCopier用紙とも言われ汎用複写機、普通紙プリンター向けの用紙)の需要推移を示す。2004 年から需要は伸び悩み、リーマン危機の2008 年をピークにその後は微減していく。なお、2020 年の急な落ち込みは COVIO-19対応のリモートワークなどの影響によるものである。
図 8.1 日本の普通紙複写 (PPC) 用紙需要推移 1)
デジタル化された複写機は、複合機または MFP(Multi Function Periferal)と呼び名を変えて、ファクシミリ、プリンター、イメージ・スキャナー、ストレージ(大容量文書保存)、ウェブ接続などの機能をもった。パーソナル向けには低価格、小型・軽量のインクジェット方式が主流になるが、中高速の一般オフィス用の複合機は電子写真方式で、安定した有線 LAN(Local AreaNetwork)に接続され組織の部課単位で共有された。
デジタル・インフラ(digital infrastructure)の進展とともに複合機(MFP)による複写モードでの利用は減少して行き、プリンターモードで使われるようになる。さらにデジタル化がすすむと紙文書依存が減り、電子文書での情報交換が主流になりはじめる。複合機の高速かつ高信頼の ADF(Automatic Document Feeder)での両面同時原稿スキャン機能が便利で既存紙文書の電子化に活躍する。複合機の複写という本来機能が使われないようになると、従来のコピー枚数に応じて課金するビジネスモデルを維持するのが難しくなっていった。
複写機業界は次の期待される成長分野として、既存の印刷産業に着眼していた。電子写真、そしてインクジェット技術を用いて印刷をデジタル化することで印刷産業のイノベーションを起こすことをくわだてた。
複写機のために生まれ成長してきた電子写真技術を、商業印刷などに展開しようとする試みは、日本からではなくイスラエル、ベルギーからであった。欧州ではオランダの Océ社が青焼きコピーの時代から複写機事業で活躍してはいたが、欧州はドイツを中心に印刷機械メーカーの存在が大きかった。歴史と伝統のアナログ印刷を、成長が期待できそうなデジタル印刷へと、電子写真技術で革新しようと考える起業家達が現れた。その一人は1977 年にイスラエルでIndigoを起業した当時 31歳の Benzion Landaである。もう一人は Agfa-Gevaertで 36 年間働いた後、1988 年に 56歳でベルギーで Xeikon N.V.を起業した Luciende Schamphelaere(1931-2017)である。
ちなみに Océは現在キヤノングループ(Canon Production Printing Holding B.V.)の一員となっている。
イスラエルの起業家 Benzion Landaは、電子写真・間接湿式方式を商業印刷へ適用することを本気で考え、その可能性を信じていた。5章 1.3にて記した AROA(AppliedResearch of Australia Pty Ltd.)が発案した TackyTonerと呼んだ粘着性トナーは、印刷インキのように支持体に粘着転写される特徴があった。通常の電子写真・間接乾式で起こりがちな転写時「トナー散り」の問題もなくオフセット印刷的な高品位画質が得られた。なお「トナー散り」は支持体面方向にトナーが飛び散る現象である。普通のカラー電子写真プロセスでは感光体から中間転写体へ1度目、中間転写体から用紙へ2度目の転写が行われる。そのため2度の転写プロセスを経るので転写時「トナー散り」対策は主要課題のひとつであるが、粘着転写ではその問題から解放された。
Benzion Landaは当初、日本の複写機メーカーに商品化を相談した。しかし賛同を得られず独自に商品化を決めた。1993 年に英国バーミンガムで開催の印刷機材展IPEX(International Printing Machinery and Allied Trades Exhibition)に最初の製品を公開した。 E-Print1000と名付け、独自の液体トナーを利用するデジタル・カラー・オフッセット印刷機が生まれたと宣伝した。Xeikonも同年の IPEX展示で DCP-1というデジタル・カラー印刷機の試作機を発表している。電子写真・間接乾式方式で8本の OPCドラムを採用した両面デジタル・カラー印刷機であった。
米国 HP(Hewlett-Packard Company)は、プリンター事業拡大のため Indigoの技術を評価し 2001 年に買収、更なる技術改良を加えて商業印刷事業に本格参入する。図8.2は第2世代の HP Indigoの画像形成主要部である 2)。シートOPCをドラムに巻きつけて感光体ドラムとしている。感光体ドラムは反時計方向に回転し、1回転で1 色ずつ現像し、順次ブランケット・ドラムにトナー転写していく。通常は Y, M, C, Kの4 色が用いられるがそれに加えて特別に3 色、合計 7 色のトナーが使える。これを実現したのは図 8.3 に示す BIDと名付けた2値現像型で、感光体に対して自動接離する小型・高効率の液体現像技術である 3)。なおここで BIDは Binary Ink Developmentの頭字語である。図 8.4 には HP Indigo12000のOPCドラム廻りに配置されたBID群を示す。5 時から9 時の位置に7本の BIDが放射状に設置されている。Indigoは発表以来オフセット印刷市場をデジタル化する戦略をとっている。1993 年は A3+(A3ノビ)で、最近は Indigo12000では最大プリントサイズ B2+(530× 750 mm)がサポートされている。
図 8.2 HP Indigo SeriesⅡの画像形成部 2)
図 8.3 BID(Binary Ink Dvelopment)現像部 3)
図 8.4 HP Indigo12000の OPCドラム廻り
HP ElectroInk4)トナー粒径は液体トナーの部類としては比較的大きく1〜3μmであり溶媒 ISOPAR5)の液体のなかに懸濁して高く帯電している。トナーは棘状の突起を持つのが特徴であり粒子同士が近接すると互いに絡み合って層膜を形成する。図 8.5 模式図のようにトナーは多数の突起を持つため比表面積が大きくなり比電荷 q/m(トナーの質量に対する電荷量)が大きいのが特徴である 6)。図 8.6 は上段から順に典型的なオフセット印刷、HP Indigo、Kodak NexPressの網点画像部を示す。NexPressは乾式トナー現像を用いるデジタルプロダクション印刷機である。印刷画質の評価は主観的な部分もあり多面的に行われる。筆者は端的に言って、網点の大きさと形状のバラツキが少なく、個々の網点が整列し鮮鋭であれば写真などの階調画像、文字線画の再現ともに良いと判断する。同図は筆者が収集した 2012 年開催 drupa展示製品からのプリントサンプルの拡大写真である。なお drupaは4 年毎にドイツ・デュッセルドルフで開かれる世界最大の印刷機材展示会で(druck und papier= press and paper(英))のドイツ語に由来する。同図から HP Indigoのドット再現が最もバラツキが少なく鮮鋭であることが容易にわかる。HPIndigo社はこのドット品質をもってデジタル・オフセットと呼び、商業印刷に十二分に適用できる水準だと宣伝した。2012 年時点では乾式トナー現像ではそこまで至っていなかった。現像ドットのバラツキがないと写真画像は滑らかで、ドットが鮮鋭であれば文字線画の評価も良くなる。
図 8.5 ElectroInkトナーの形状模式図 6)
図 8.6 drupa2012印刷サンプル網点部拡大
ドットのバラツキは正式には粒状性(graininess)として評価される。
なおここでプロダクション印刷と言うカテゴリーは、高級オフセット印刷による商業印刷のレベルまでは達しない画質レベルを区別して分類している。
このデジタル印刷機の特徴は両面同時印刷できるように 10本の OPCドラムを用いている。図 8.7 に示すように K, M, C, Y, Sの合計5 色の電子写真モジュールが印刷用連続紙を挟んで両側2列並んでいる。ここで Sは白色を含む顧客が選択できる特殊色である。巻き取りから供給される連続紙は一連の画像形成プロセス終端部のローラーで牽引され、10本の OPCドラムはトナー転写部で静電吸着された状態で連れ回りする。このように用紙の運動が支配する駆動システムを発明することで 10本の OPCドラムの完全同期駆動が達成された。このレイアウトによるドラム駆動で特別なサーボモーターなどを用いることなく各色、表裏の正確な見当合わせができた。定着は輻射熱で行いその後、光沢付与ローラーも付加されている。最大の用紙幅 320 mmの製品が DCP/32D、同 500 mmのDCP/50Dも提供された。印刷速度は片面では A4サイズ 35 ppmであり両面印刷では2倍の A4 70 ppmとなった。
図 8.7 Xeikon DCP/32D/50D 構成図 7)
露光には 600 dpiの LED arrayが用いられ、各画素は9レベルの輝度変調をして解像度と階調性の両立が図られた。図 8.8 は LED arrayの実装形態を Océ DemandStream 8000DIの実例で示す。LEDチップの 600 dpiの密度の発光画素はSELFOC9)光学系を用いて感光体ドラムに結像される。
図 8.8 LED arrayデジタル露光モジュール 8)
銀塩写真大手のコダックは、デジタルカメラの台頭に脅威を感じると共に、印刷のデジタル化で既存印刷資材の売り上げが影響受けるので対応策に迫られていた。一方ドイツの枚葉オフセット印刷機製造の名門であるハイデルベルク(Heidelberger Druckmaschinen AG)社も印刷のデジタル化に早急に対応すべき状況にあった。両者は合弁でNexPressという会社を立ち上げた。そして電子写真・間接乾式カラープロダクション印刷機を開発し 2000 年の drupaにて発表した。なおハイデルベルク社は白黒デジタル印刷機製造の Heidelberg Digitalと NexPress両社とも 2004 年にコダックに売却している。
図 8.9 は NexPress 2100の構成図であり、5ドラム・タンデム型で K, Y, M, C+S合計5 色の画像形成部を持つ 10)。なお Sは白色を含む特殊色に充てられる。600 dpiの LED arrayを用いて OPCに潜像形成し回転磁石式の磁気ブラシ現像後に、ブランケット・シリンダーに一旦トナー像を転写する。図 8.10 右端に拡大して示すブランケット・シリンダーは表面帯電防止、多層構造ポリウレタン弾性層を有し、凸凹のある用紙も含め各種の用紙などへの転写を可能にする 11)。最大 A3+サイズで、NexPress 2100は A4サイズ70 ppmのプリント速度であったが、drupa2016で発表された NexPress SX3900では 120 ppmまで速度が上がり最大用紙サイズは 340× 510 mmから 356× 650 mmまで拡大して印刷業務の領域を拡大している。
図 8.9 Kodak NexPress 2100構成図 10)
図 8.10 NexPressの電子写真画像形成部 11)
電子写真・間接乾式の大御所である米国ゼロックスは、白黒のデジタル・プロダクション印刷機は 1990 年から発売していた。最初はレーザー2ビーム走査方式で 600 dpi/A4 /135 ppmの DocuTechProductionPublisherシリーズである。
カラー印刷機については 2002 年に満を持して iGen3と名付けたデジタルプロダクション印刷機を発売した。長尺感光体の OPCベルトを用いて、1パス(1回の OPCベルト通過)によって4 色のトナー像を OPC上に形成する IOI方式である。IOI(Image on Image)は、7章 4.2にて記したように松下電器、コニカが 1990頃に商品化したものでこの構想を洗練し発展させた。ドラム形式の感光体ではなく、背丈ほどの長尺 OPCベルトにたいして現像機を縦方向に 4 個配列したものである。図 8.11 が DocuColor iGen3の全体構成で、W/H/D:7210× 1829×2438 mm、重量は 3, 580 kgである。インテリジェントな印刷機(SmartPress)であり、iGen3印刷機には 85のコンピューター、500万行のソフトウエア、192のセンサー、102のモーターを持つと Rafik Loutfyは国際会議 NIP18で発表した 12)。最大用紙サイズは B3+(364× 521 mm)であり、A4サイズで 100 ppmの出力速度である。稼働時の画質の安定性は、従来以上で色差 CIELABΔE<3を満足したと報告している 13)。なお、CIELABΔEは、国際照明委員会 CIE(Commissioninternationale de l'éclairage)が 1976 年に推奨した知覚的に均等な色空間における直線距離である。参考までに色差ΔE = 2.5はプリント 2枚を離して比較した場合、ほぼ同一と認められるレベルである。
図 8.11 XEROX DocuColor iGen312)
図 8.12 は筆者が収集した 2012 年 drupaでの iGen3後継機 iGen5 150 Pressのプリントサンプルの網点部拡大である。図8.6上段のオフセット拡大図と比較するとプロダクション印刷という画質レベル、つまりオフセット印刷による商業印刷のレベルまで達していないことが、ドット形状のバラツキから納得できる。
図 8.12 iGen5 150 Pressの網点部拡大
図 8.13 には iGen3に用いられたゼロックスの乾式現像技術の集大成というべき HSD(Hybrid Scavengeless Development)による現像方式の模式図を示す 14)。
図 8.13 iGen3の HSD現像方式模式図 14)
まず通常の2成分磁気ブラシ現像で2本の半導電性のドナーロールに一様なトナー層を形成する。ドナーロールに非接触で近接して現像ニップ対向域に4本のワイアー電極が張架されている。500 V程度の ACバイアスをドナーロールとワイアー電極間に印加すると、ドナーロール表面に付着したトナーが離脱しトナークラウド(toner cloud)と呼ぶトナー粉末の雲を形成する。このトナー雲を OPC感光体ベルトの静電潜像に近づけると理想的な状態で現像される。通常は磁気ブラシで直接潜像を現像するが、穂跡(brushmarks)と呼ぶ磁気ブラシによる「刷毛目」が問題になる場合があったが、HSDはこの問題から完全に解放された。
図 8.11 の長尺感光体の OPCベルトの左上から M, Y, C, Kの順に設置された電子写真 IOIモジュールで、 1パス(1回の通過)で4 色ぶんの潜像形成と現像を行う。OPCベルト最下部で左から右方向に用紙が搬送され、4 色ぶんを重ねられたトナー像は OPC裏面に超音波を印加しつつ静電的に転写される。超音波振動はトナーの OPC表面への近接力による付着を解放する。転写は静電引力のみに支配されるので、凹凸のある用紙へも綺麗に転写できる。NexPressで用いられた弾性層を持つブランケット・シリンダーなどは必要としない利点がある。IOIの優位項目である4 色トナーの一括転写は転写時に起きがちな「トナー散り」の問題も極めて少ない。なおトナー散りは支持体面方向にトナーが飛び散る現象である。HSD方式でトナークラウドによる効率良い現像には、トナー粒子サイズは比較的大きめで粒径8μm、比電荷量 q/m = -40μC/g程度と Mark J.Hirschは報告している 14)。
前述の欧州、イスラエル、米国の動向を見ながら、日本の複写機メーカーは電子写真の商業印刷への展開の可能性を研究していた。日本の印刷業界は電子写真技術による印刷画質、印刷単価、稼働安定性には非常に厳しい評価を下していた。日本バブル崩壊後の低迷する経済状況の下、複写機メーカーは開発投資が巨額でもあり電子写真方式でのデジタル印刷機の開発は留保し様子見を続けていた。
図 8.14 には 2000 年頃のカラー印刷単価(相対値)を縦軸に、印刷部数を横軸にして技術比較している。対象技術は電子写真カラー複合機と記す日本製の複合機、E-Print 1000 (HPIndigo)、DCP/32D(Xeikon)、それに4種のオフセット印刷技術である。左端の Computer to Printは電子写真方式やインクジェット方式などであり、コンピューター出力を直接印刷するものである。また中央左の Computer to Press/DIは、コンピューター出力を印刷機内でレーザー直描して水無オフセット刷版を作製する。その後手動プロセスなしに直ちに印刷移行できるもので QM DI46-4 (Heidelberger Druckmaschinen AG)の製品技術に代表される。
図 8.14 印刷部数とカラー印刷単価の技術比較(注釈の一部著者追記) 15)
ラン・レングス(run length=走る長さ)とは文字通り1ジョブ(まとまった印刷作業)当たりの印刷部数である。印刷部数が 100 部程度であれば電子写真複合機の方が印刷単価は安いが、400 部を越えると枚葉オフセットの単価が安くなり、20, 000 部を越えると輪転オフセット(web-fed offset)が単価は安くなり最終的には、1 /5以下に下がる。図 8.14から明らかなように E-Print 1000、DCP/32Dについても大同小異である。
印刷技術は 15 世紀半ばにグーテンベルクにより活版印刷が発明されてから、大量の受け手へ同一情報を伝えるマスメディアを目指して進化してきた。したがって大量部数の印刷と拡大販売をすること自体がそのビジネスモデルの基本になっている。日本バブル崩壊後の低迷する経済下で、守りの姿勢になった日本複写機メーカーの経営陣は既存印刷産業の事業モデルをデジタル印刷で破壊しようと言う野望と意欲は起きなかった。つまり電子写真によるデジタル印刷への参入には課題が多く気が乗らなかったのである。
一方で画像学会の会員の中には電子写真デジタル印刷を推進する改革派達が少なくなかった。既存の印刷があまりにマスメディアと化してしまったために、大衆迎合的で記事内容が軽薄になった弊害が出ているなどと論じた。大量印刷・大量販売に頼らない印刷メディア改革の方向が必ず存在すると同関係者達は議論した。顧客情報をもとに住所・氏名・メッセージなどを1枚ごとに変えて印刷する1to 1マーケティングの成長期待についても論じた。また数 100 部のジョブを対象とする「ショートラン印刷(short runprinting)」の需要が立ち上がる。顧客からの要求次第で1 部からでも印刷する「オンデマンド印刷(print ondemand)」の事業機会が必ずある。インターネットの普及によって対象顧客総数が増え、総体として売り上げが相当量に積み上がる。いわゆるロングテール(long tail)のビジネスモデルなど活発な議論を展開していた。
図 8.15 に示す典型的書籍出版(白黒、ハードカバー、 5, 000 部、380ページ、A5版)におけるコスト分析では、$20USDの本の製造コストは小売価格の 12.5%、出版価格の25%を占めるに過ぎず$2.50である16)。さらに印刷コストは製造コストの7%であり$0.175に過ぎない。デジタル印刷への転換で相応の利益をあげるには、印刷物生産から小売までのバリューチェーン(valuechain)でデジタルが持つ潜在価値を見つけて印刷業者に提示する必要に迫られた。
図 8.15 書籍出版のコスト構造分析 16)
日本の大手複写機メーカーはこのような議論に時間を費やし、そして 10 年が過ぎてしまった。
米国ゼロックスは 1990 年に DocuTechシステムを発表していた。超高速白黒機で A4サイズ 135 ppmを 600× 600 dpiの解像度で出力した。富士ゼロックスはこれを日本市場でも販売し、製品マニュアルなどのオンデマンド印刷に市場が開拓されていた。
国産の高速オンデマンド印刷機はコニカミノルタが 2006 年に白黒機で先行した。1993 年に IPEXでカラー機を発表した海外勢には 10 年以上遅れた。遅れの理由は前述の通りであるが、各社は新規市場開拓には異なる戦略を持ってデジタル印刷機開発を進めていた。コニカミノルタは米国ゼロックスに考えが近く、最初から白黒のオンデマンド印刷市場に着目している。顧客情報をもとに住所・氏名・メッセージなどを1枚ごとに変えて印刷する1to 1マーケティング、在庫管理をなくすことによるコスト削減などを印刷業者に訴求した。用紙サイズは A3+(最大用紙サイズ 324×460 mm)としてフルトンボ出力に対応した。印刷業は仕上がりサイズに裁断するためのマークとして、+」などトンボ(見当票)を画像域外に印刷するが、これ対応する仕様にした。これは一般の複写機にはなかった印刷業者向けの仕様であった。A4サイズ 105 ppmで解像度 2400 (相当)×600 dpiとし、新開発の重合法トナーを採用しオフセット印刷並みの文字品質を達成した。また用紙は薄紙から厚紙までの幅広い坪量 40〜300 g/m2に対応した。印刷用コート紙にも対応したので、あらかじめオフセット印刷されたインキの上に違和感なく追い刷りすることもできた。
このように印刷業の実情をよく理解して、まずは白黒の文字主体の印刷からデジタル技術の価値を提案して日本市場に普及させていった。図 8.16 は bizhub-PRO 1050eの商業印刷機としてのシステム構成例であり、本体標準価格は¥6, 500, 000であった。
図 8.16 bizhubPRO 1050e 商業印刷システム構成例 17)
同社は白黒機の発売と同じ 2006 年にライトプロダクション市場を対象にフルカラー・オンデマンド印刷システム bizhubPRO C6500を価格¥4, 000, 000で発売した。A3+、600× 600 dpi、A4サイズ 65 ppm、新開発の重合法トナーを採用した。用紙も印刷用コート紙300 g/m2にも対応した。印刷の最終成果物の内製化を促す充実した印刷後工程機能を装備できた。6種類紙折り、中綴じ、100枚のステイプル、80ページの製本ができるフィニッシャーなどである。2014 年には bizhub PRESS C1100でミッドプロダクション市場へ本格参入、2020 年には図 8.17 に示すAccurio-Press C14000をヘビープロダクション向けに価格¥61, 599, 000で発売した。生産性、信頼性、メディア対応力を追求した旗艦モデルである。A4サイズ 140 ppm、3600 相当×2400 dpi、薄紙から厚紙までの幅広い坪量 52〜 450 g/m2に対応、用紙 A3+(最大用紙サイズ 330× 487 mm)長尺紙 321× 1295 mmまで可能とした。図 8.18 にはその主要部の構成を示す。同社独自の縦型タンデム構造を踏襲している。上から Y, M, C, Kの順に1次転写ユニットの中間転写ベルト上にトナー画像転写され、右から給紙される用紙にベルト最下部で2次転写され左の定着部に送られる。5 色目を想定し K画像プロセス部の下に空きスペースが確保されている。新開発の 16ビームのレーザー走査系により 3600 相当× 2400 dpiの解像度を達成した。現像は2段磁気ブラシの順方向現像として高速での現像能力を確保した。現像後トナー放出した現像剤がトナー濃度不足状態で再び現像に向かわないように、軸方向に現像剤を搬送攪拌する一循環現像剤攪拌方式を採用した。中間転写ベルト表面に高抵抗層を設けることで表面に凹凸を有するエンボス紙への転写を確実にした。
図 8.17 AccurioPress C14000システム構成例 18)
図 8.18 AccurioPress C14000画像プロセス部 19)
さらにインラインスキャン機能を応用し、画像汚れの自動検品と排出、リカバリー印刷など一連の動作を自動化し印刷業を営む顧客の省力化に応えている。後加工についても四方断裁、中折り、ミシン目、ドブ裁ちなどをインラインシステムに組み込んだ本格機である 19)。
キヤノンは 2010 年にオランダ Océを傘下に入れたのでプロダクション印刷機分野の大半は Océに任せていた。2007 年にキヤノン製のカラー・オンデマンド機であるimagePRESS C7000 VPを¥21, 500, 000で発売した。A4サイズ 70 ppm、1200× 1200 dpiの 2ビームレーザー走査系を用いた。さらに 2015 年に後継機の imagePRESSC10000 VPを標準構成価格¥25, 000, 000で発売した。A4サイズ 100 ppm高速・高画質を狙って 2400× 2400 dpiの書込み密度で 32本のマルチビームを同時走査できる、R-VCSELをソニー㈱と共同開発した。Rは発光波長が赤色の Redを意味し、従来の赤外発光よりも小スポット径が得られるので高精細だと説明した。なお VCSELは(Vertical Cavity Surface EmittingLaser)の頭字語で面発光型多ビーム出力の特徴がある。図 8.20 は筆者が収集した 2016 年の drupaでのプリントサンプルの網点部拡大であるが他社機の図 8.6 、図 8.12 、図 8.22 など比べてさほどに高精細とは見られない。なお各図の拡大倍率とスケールは同一である。最新の機種は 2020 年に発売の図 8.19 に示す構成例 imagePRESSC10010 VPで、キヤノンのプロダクションプリンター系列の旗艦モデルである。用紙厚さ坪量 60〜 400 g/m2の範囲で、凹凸のエンボス紙にも弾性中間転写ベルトで対応、長尺用紙は 330× 1300 mmまでサポートした。画像汚れ、表裏の見当ずれ、色味の違いなどを監視する検品工程自動インスペクションユニットも 2021 年に提供した。
図 8.19 imagePRESS C10010 VPシステム構成例 20)
図 8.20 imagePRESS C10000 VP網点部拡大
リコーは 2008 年に RICOH Pro C900を価格¥15, 200, 000で発売しフルカラー・オンデマンド印刷市場に本格参入した。A4サイズ 90 ppmで 1200× 1200 dpiである。用紙厚みは坪量 60〜 300 g/m2に対応した。図 8.22 は筆者が収集した 2012 年の drupaでの RICOH Pro C901のプリントサンプルの網点部拡大である。前述の網点部拡大図と比較して、液体現像の HP Indigo機には及ばないが電子写真・乾式の製品群の中では高いレベルに位置し、オフセット印刷に並ぶレベルと見られる。2018 年には後継機として図 8.21 に示す Pro C9210を¥31, 200, 000で発売している。A4サイズ 135 ppmの速度で、用紙サイズ A3+(最大 330× 1, 260 mm)、用紙厚みは坪量 52〜 470 g/m2である。弾性中間転写ベルトの採用で表面が凹凸のエンボス紙も含めて安定したトナー転写が得られる。エステル伸長重合法によるトナーを採用、自社開発の 40チャンネルの VCSELを用いて 2400× 4800 dpiの高解像度を達成している。一例をあげれば稼動時の画像調整安定化には様々なセンサーと制御システムが図8.23のように実装されている。感光体ドラム軸方向に検査パッチを多数形成し中間転写ベルト上の濃度を検知してページ内色変動を抑制する。連続運転中にも中間調のパッチ濃度を検出しながらページ間の濃度を制御している。電子写真画像形成部は、図 8.24 に示す通り、感光体ドラム(OPC)を4連で構成するタンデム構成である。中間転写ベルトを用いていることを除けば、この構成は 1990 年に ARTAGE8000を発売以来30 年変わっていない。また前述のコニカミノルタ、キヤノン、後述の富士ゼロックスも4連が6連に増設されたりしてはいるものの各社同様な4連タンデムが基本構成である。
図 8.21 RICOH Pro C9210システム構成例 21)
図 8.22 RICOH Pro C901網点部拡大
図 8.23 RICOH Pro C9210の画像調整安定化技術 21)
図 8.24 RICOH ProC 4連タンデム構成 22)
富士ゼロックス(現・富士フイルムビジネスイノベーション)㈱は、米国ゼロックスの高速機 DocuTechの機種系列を日本国内向けに販売していた。日本の競合メーカーの影響もあり独自にカラー機の開発も行っていた。最初の4ドラムタンデムカラー機 DocuColor4040は 1996 年の drupaで発表していた。本格的なオンデマンド印刷機であり A4サイズで40 ppmを出力できた。2008 年の drupaでは、700 Digital Color Pressを発表した。印刷専門業者に依頼しないでインハウスで専門知識なしに印刷できるオフィス複合機ベースの印刷機である。用紙サイズはA3+(最大 330× 488 mm)、紙厚は坪量 64〜 176 g/m2、速度 A4サイズ 71 ppmで、300 g/m2までの厚紙走行もできた。トナーは新開発の重合法トナーである EA-Ecoトナーが採用され 2400× 2400 dpiの解像度で、32チャンネルの自社開発 VCSEL書き込みで高画質を得ている。なお EAは Emulsion Aggregation、乳化重合のことで Ecoは低温定着であるため Ecologicalであることを意味する。高級複合機、オンデマンド印刷機にはコニカミノルタ、リコーも重合法によるトナー造粒設計技術を用いているが各社の製法は異なる。富士ゼロックスの EA-Ecoトナーの設計について鈴木千秋らは実に的確に解説している 23)。
電子写真プリントシステムの印刷市場への本格展開には画質、特に既存の印刷画像相当の画像グロス(gloss:光沢)再現性が必要であった。画像グロスに関して、オフセット印刷画像の場合、インク層は用紙
表面に 1μm程度に形成されている。この薄く均一なインク層では用紙のグロスに対応した画像グロスを示すので用紙の風合いを変えずに印刷が仕上がる。従来の電子写真・間接乾式法の場合、用紙表面にトナーが溶融堆積した状態で形成され微視的には盛り上がっている。そのためトナー層の溶融ムラ、表面平滑性ムラなどで、トナー層固有の光散乱が生じ、用紙地肌グロスとの不一致が起きる。粗い表面のザラ紙の場合は、それが効果的な場合もあるが、プロの印刷業者には許容されない。特に定着の離型オイルを用いない場合、ホットオフセット(トナーの過加熱による凝集力低下で起こるトナー層分断による定着部材への付着)を起こさぬように、溶融時のトナー粘度は高目に設計されている。そのため印刷用コート紙など高光沢の紙のグロスに対してトナー画像のグロスが低くなってしまうこともある。これらの課題に対して、新開発のシャープメルトポリエステルの特性を活かし、粘弾性設計を行いトナーの溶融時粘度を低くして、かつホットオフセットも解決した。
製法に関しては、従来の EA製法の基本プロセスを用い、EA-Ecoトナーを作製している。具体的にはポリエステル樹脂を乳化し、着色剤、ワックス等の微粒子を水系中で凝集剤の添加により、凝集、成長、シェル化、合一化させるものである。製法の概略を図 8.25 に示す 24)。
図 8.25 EA-Ecoトナー製法の概略 24)
EA-Ecoの場合は、材料設計と EA製法の改良により、シャープメルト・ポリエステルをトナー中に最適配置させることで、ブロッキング(トナー1次粒子が固まること)やホットオフセットを防止しつつ、低温定着が可能なトナー構造にした。図 8.26 は平均粒径 5.8μmとされるトナー1 個の内部構成と表面に外添された機能性粒子とそれらの役割を模式的に示している。なお定着方式によって定着温度は決まる。従来は 150 ℃程度と想定するが EA-EcoトナーはΔ 20 ℃下げ、さらに改良したシャープメルトポリエステルをノーマルポリエステルの外殻で包んだ Super EA-EcoトナーはΔ 35 ℃下げたことを図 8.27 に示す 25)。筆者は 120 ℃程度で定着できれば相当に低温定着の部類であると考える。
図 8.26 EA-Eco トナーの構成 23)
図 8.27 Super EA-Ecoトナー粘度・温度特性 25)
印刷専業向けに 2014 年に¥45, 065, 000で発売された図 8.28 の Color 1000i Pressは A4サイズ 100 ppmで、ゴールドトナー、シルバートナーを開発して提供した。電子写真画像形成部は図の左上部であり、 Y, M, C, Kの順にカラー画像形成される。Yの前に特殊色ユニットが設置され、さらに空きスペースが設けられ合計6 色まで展開可能な設計であった。事実 2017 年に価格¥55, 298, 000で発売された Iridesse27)Production Pressは業界初の6連タンデム構成になった。白トナーを含むゴールド、シルバー、クリアーなどの特殊トナーを提供した。最下層、最上層に特殊トナーを置く「下刷り、上刷り」の技法が1パスで可能となった。それでアイキャッチ効果の高い商業印刷への適用を訴求した。低温定着のSuper EA-Ecoトナーを適用することで A4サイズ速度は厚紙まで含めて 120 ppmを達成している。
図 8.28 富士ゼロックス Color 1000i Press 26)
本章では複写機技術の印刷への応用についてイスラエル、欧米企業と日本の複写機大手企業の画期的製品を取り上げて解説した。電子写真技術に限定しても海外勢は、粉体トナーを用いた乾式プロセスと液体トナーを用いた湿式プロセスの両方を商品化している。感光体ドラムを1本で構成した画像形成プロセスもあれば 10本も用いるプロセス、1本のベルト感光体を用いた IOI(Image onImage)プロセスなど極めて多彩である。
これらに比べて日本の複写機大手4社は、海外に比べて本格的デジタル印刷機の商品化は 10 年も遅れた。 4社ともに図 8.24 に示すような、感光体ドラムを4連〜6連で構成する OPCタンデム構成で中間転写ベルト方式である。お互いに相談して決めたように4 色の重ね合わせ順序も Y, M, C, Kで4社とも同じである。
国産複写機誕生の 1970 年代のはじめには、多種多様な技術を開発し商品化を競った。その頃から 40 年が過ぎ、複写機メーカーは何故挑戦しなくなり横並び志向になったのだろうか。
第一は、1990 年代はじめの日本バブル崩壊以降、社会の全体がリスクを回避し、事なかれ主義、縮小均衡の路を選んだのが背景にあると考える。複写機メーカー組織内でも革新テーマにより自己の立ち位置が危うくなることを心配する保守派がいた。否定的理由を挙げてデジタル印刷機開発への資源配分を妨げた。
第二に改革派達は複写機技術をデジタル印刷向けに応用展開していくことを画策した。しかし汎用複写機に比べて1桁上の画像均一性、一貫性、見当合わせ精度、多種多様な紙種対応が求められ、開発リソースが想定を大幅に超えてしまった。
第三にマスメディアとしての印刷全体のビジネス規模は複写・プリンター事業に比べて1桁大きいが、その利益構造は複雑多岐で新参者には容易に理解できなかった。単にオフセット印刷機を電子写真デジタル印刷機に置き換えて print on demandの少部数印刷を提案できても、利益性の高い新たなビジネスモデルは捻出できなかった。一方で海外勢は電子写真デジタル機を開発し印刷事業に参入して、試行錯誤を繰り返してその利益構造を理解しながら次機種に市場要望を反映する戦略をとっていた。
第四に電子写真方式で 515 mm幅の画像プロセスを達成するのは開発コストが嵩み、販売総ロット台数の見込みが付かない状況では決断が躊躇された。既存の印刷システムは生産性をあげるために B2 (515× 728 mm)サイズの印刷が主流である。一方で、高速・広幅印刷に対してスケーラビリティー(scalability)が高いラインヘッド型インクジェット(line head type inkjet)方式が電子写真に代わって盛んに開発され、商業印刷はじめ、布地、看板、建材、陶器、段ボールなど、多彩な部材、支持体へのデジタル印刷化に貢献し始めていた。そのため複写機業界は、インクジェット方式のデジタル印刷機へ優先して開発リソースをシフトさせた。それで電子写真技術をデジタル印刷事業へ応用・展開する判断は時期を逸してしまった。
しかし先行した海外勢が、既存の印刷機をデジタル印刷機で次々に置き換えることには必ずしも成功していなかったのである。デジタル化キャンペーンの途中でリーマン危機があって印刷業界でも設備投資が控えられた。
さらに危機と前後して、消費者向けの携帯型情報端末が Apple Computer Inc.(現・Apple Inc.)により再発明された。同業他社もこれに追従し、SNS(SocialNetworking Service)を含む洗練された有用なモバイル・アプリ(mobile application)の無料提供と相まって爆発的に普及していった。用紙に情報を印刷することなく、いつでもどこでも電子メディアが閲覧、利用でき、人々はまもなくその虜になったのである。
参考・引用文献
1) | https://www.jpa.gr.jp/file/release/20210119024759-1.pdf, (accessed2021-03-15)の統計を元に筆者編集 |
2) | M.H.Lee, Omer Gila et al."HP Indigo 7000 Digital Press"日本画像学会誌, Vol. 50, No. 1, pp.36-41 (2011) |
3) | 大嶽英宗"液体現像技術の展望"日本画像学会誌, Vol. 49, No. 2, p.112 (2010) |
4) | HP Electroinkは HPの登録商標である |
5) | エクソンモービル社のイソパラフィン系溶剤で高純度の炭化水素系溶剤の商品名である |
6) | 有賀誠"液体現像処理-HP Indigo Press-"日本画像学会誌, Vol. 48, No. 1, p.58 (2009) |
7) | Helmut Kipphan"Handbook of Print Media", Springer-Verlag Berlin Heidelberg(2001), 659p. |
8) | Helmut Kipphan"Handbook of Print Media", Springer-Verlag Berlin Heidelberg(2001), 664p. |
9) | SELFOCは日本板硝子の登録商標であり、Self Focusingの略である。屈折率が中心部から周辺部にゆくにつれて放物線状に低くなる細い棒状レンズを長手方向に整列させたものである。 |
10) | Detlef Schultze-Hagenest"NexPresss moves modularity and upgradeability and improvesproductivity" International Conference on Digital Printing Technologies, NIP22, pp.543-548 (2006) |
11) | Yee Seung Ng et al."Kodak NexPress Digital Production Printing technology"日本画像学会誌, Vol. 44, No.1, p.44 (2005) |
12) | Rafik Loutfy"Digital Color Printing: The New Business of Printing", IS&T, InternationalConference on Digital Printing Technologies, NIP18, p.5, The Keynote Paper(2002) |
13) | 安部高志"DocuColor iGen3 Digital Production Press"日本画像学会誌, Vol. 44, No. 1, p.61 (2005) |
14) | Mark J.Hirsch"Some Fundamental Performance Aspects of the Xerox iGen3 Development System"International Conference on Digital Printing Technologies, NIP22, pp.418-421 (2006) |
15) | Helmut Kipphan"Handbook of Print Media", Springer-Verlag Berlin Heidelberg(2001), 978p. |
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17) | https://www.konicaminolta.jp/about/release/2006 /1117_01_01.html(accessed2021.9.6) |
18) | https://www.konicaminolta.jp/business/products/graphic/ondemand_print/color/accurio-pressc14000-c12000.pdf(accessed2021.9.9) |
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20) | https://canon.jp/corporate/newsrelease/2021 /2021-02 /pr-imagepress(accessed2021.9.9) |
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22) | https://www.ricoh.co.jp/-/Media/Ricoh/Sites/co_jp/pdf/34211554 /RICOH_Pro_C901_C901S(accessed2021.9.6) |
23) | 西海秀文他"700Digital Color Press"富士ゼロックステクニカルレポート No. 19, pp.105-106 (2010) |
24) | 大門克己他"EA-Ecoトナー"富士ゼロックステクニカルレポート No. 20, p.17 (2011) |
25) | 松本晃他"Super EA-Ecoトナーの開発"日本画像学会誌, Vol. 59, No. 1, p.150 (2020) |
26) | 箕田淳他"Color 1000i Press"富士ゼロックステクニカルレポート No. 25, p.136 (2016) |
27) | Iridesseは富士ゼロックスの登録商標である |
28) | Nanographic printingは Landa Corp., Ltd.の登録商標である。 |
液体現像に賭けた二人
液体トナーを用いる電子写真複写機、プリンターで語り継がれる理系の起業家がいる。 Paul Charlap(1924 - 1991)とBenzion Landa(1946 -)である。
米国ニューヨーク市の医療機器販売EPCO社から分離独立し、事務複写用の拡散転写式感光紙を販売するSavin社が1959 年に設立された。その社長を任されたのがPaulCharlapであり、彼は乾式のゼロックスと違う次世代の複写技術を求めて世界中から情報を収集していた。1965 年発売のリコー「電子写真・直接湿式」複写機BS-1を高く評価し、これを自動化し高速にする構想の実現をリコーに相談、依頼した。リコーは1967 年にBS-2として商品化成功し、OEM供給したBS-2は全世界で良く売れ、殆ど無名のSavin社は複写機業界では一流企業に成長した。写真上は50歳頃のCharlapがリコー大森本社の開発部門を訪問した際の写真である。筆者と同期入社の渡部達矢が顔写真付きIDカード作製機として開発中の電子写真カメラで1973 年に撮影された。OPC上に潜像形成し静電記録紙に潜像転写のあと液体現像したものであり貴重なプリントサンプルでもある。Charlapは、化学と物理の学位の持ち主であり、彼の魅力的なところは世界中の友人や敵に予告なしに電話をかけ、彼らをインスパイアーする並外れた能力であった。
イスラエル工科大学で物理、ヘブライ大学で心理学を学んだBenzion Landaは、卒業後は顕微鏡写真関係の企業で仕事をした。そのあと1977 年に Indigo DigitalPrinting社を設立し、液体現像を用いる電子写真複写技術の開発をPaul Charlapの支援とインスピレーションを受けながら行った。
1993 年には、E-Print 1000と名付けた独自の液体トナーを利用するカラーデジタル印刷機が生まれ、その後Indigo社の大きな事業成功につながる。Charlapは電子写真の液体現像と粘着転写についての技術思想をLandaに伝承したが、印刷機の完成を見ることなく1991 年に67歳で亡くなった。写真下は2012 年のdrupaでLandaが新規開発したNanographicPrinting28)のプレゼンテーションをしているところを筆者が撮影した。なおdrupaは4 年毎に独デュッセルドルフで開かれる世界最大の印刷機材展であり(druck undpapier= press andpaper(英))に由来する。
Paul Charlap 1973
Benzion Landa 2012
世界の複写機の現像方式が急速に乾式に置き換わっていく中で、Charlapは液体現像の可能性を信じて、粘り強く追求しLandaに実現への強い期待を寄せていたことが下の特許からも窺える。
USP4, 411, 976米国特許抜粋
複写機業界は紙の役割と価値は急速に変化していくと考えた。早晩電子文書が支配的になるとの予測から複写機メーカー大手は、オフィス分野の複写量の成長には見切りをつけた。
用紙に情報を印刷することなく、いつでもどこでも電子メディアを利活用できる情報通信環境のもとで複写機に未来はあるのだろうか。
2012 年の drupaにて、イスラエルの起業家 Benzion Landaは「ランダ劇場」とも言われた Landa Digital Printing社の特設会場を設けた。そして彼は壇上にてデジタル印刷の商業的成功に議論の余地はないと断言した。彼のプレゼンテーションの場に参加した筆者はこの時の要旨を以下のように記録している。
全世界のデジタルプロダクション印刷の成長は、 2006 年から 5 年間の平均で 11%の伸びを示し、2011 年には1兆ページを達成した。しかもデジタル印刷は年間 50兆ページの総印刷量のわずか 2%を置き換えたに過ぎず、大きな成長の機会があると考えられる。一方既存複写機、プリンターからの出力量は、全世界で 3.1兆ページ(A4換算)の事業規模であり、先進国の需要漸減を新興国の増加でカバーしている構図であり、今後の成長は望めそうにない。今こそ、電子写真やインクジェット技術を用いてデジタル印刷事業へ本格参入するのが正しい取るべき戦略だと、彼は結論づけたのである。
Drupaには開催後に非公式サブタイトルが付けられてきたが、2000 年は「Digital drupa」と言われ米国ゼロックスが電子写真白黒デジタル印刷機を揃えて出展した。その後、電子写真方式はインクジェット方式の攻勢に遭って落ち込んだ。2008 年にはインクジェットの速度、大判、カラー容易性で「InkJet drupa」、2012 年は、印刷並みの大判がデジタル印刷で提供できるという意味を込めて「B2 drupa」と言われた。ついにインクジェット方式が乾式電子写真方式を凌駕した。さらに 2016 年は「Packagedrupa」と言われ包装材料へのデジタル印刷が脚光を浴びた。なお、1995 年には CTP(Computer to Press)で、2004 年には JDF(Job Definition Format)であるが、本論から離れるので解説は省く。
Drupaは印刷メディア産業全体に経済的、技術的影響を及ぼす世界最大の印刷機器の商品展示と購入成約の場である。図 9.1 に入場者数の推移を示すが、drupaの歴史は 1951 年に始まり65 年の歴史を誇る。1990 年がピークで 2008 年以降急速に減少し、リーマン危機以降の世界経済の落ち込みが印刷関連業界にも大きな影響を与えたことがわかるが、2016 年まで入場者数の回復傾向が見えない。なお 2020 年は COVID-19のため延期された。
図 9.1 世界最大印刷機器展示会「drupa」入場者数の推移 1)
Drupaの入場者数が印刷業界の諸活動の尺度と仮定すると次のことが言える。過去 20 年を振り返ると、 2000 年は「Digital drupa」と言われ今後の印刷の方向がデジタル印刷になると期待を持たせた。しかしながらリーマン危機後、回復の兆しは見られず 2016 年の入場者は更に落ち込んだままである。同年は Package drupaと呼ぶ、包装、容器印刷が展示会のサブタイトルであった。このことから用紙をメディアとする一般印刷の需要見通しが世界規模で低下し、新型印刷機器への期待や投資意欲が落ちたのではないか。この難局をデジタル印刷機が救ってくれるとの期待も失せたようである。
電子メディアがいつでもどこでも共有されるようになると、印刷メディアの要求は減っていくと本章の冒頭で述べた。一般消費者向けの商業印刷こそ、多機能なモバイル・デバイスにとって代わられると印刷業とその関係者は考えたのだろうか。
図 9.2 は標準的文書に使われる 10.5ポイントの明朝体「竈」の表示品質を示す。特別な意図はなく、単に漢字の画数が多く解像度を必要とする文字を選んだ。
図 9.2 ヒラギノ明朝 ProN による 10.5pt.「竈」の 10 倍拡大
図の上段左は 2010 年の初代 iPad2)の LCD(Liquid Crystal Display)表示パネルの文字再現、上段右は 2015 年 iPhone6S2)で大幅に改善されたことを示している。画素密度は 326 ppi(pixel per inch)であるが8 bit/pixelの階調を持つので明朝体が比較的滑らかに再現されている。下段左は 2020 年のiPhone11pro2)は OLED(Organic Light-Emitting Diode)表示パネルの画素密度が更に向上し458 ppiとなり繊細な文字再現となっている。なお図示しない初代の iPhoneの画素密度は 163 ppiであり、初代 iPadよりも画素密度は 20%高い。比較のために下段右に 2400 dpiの一般事務用レーザープリンターの電子写真乾式トナー像を対比させている。これから、デバイス表示は2020 年にはレーザープリンターと同等の再現レベルに達していることがわかる。つまり明朝体特有の「ウロコ、ハライ、ハネ」の細部まで表現できている。なお図は露光量を抑えて 10倍拡大しているので、OLED表示パネルとプリント用紙の微細構造や質感の違いが目立つ。実際の標準使用条件下で肉眼は微細な画像構造を知覚できない。このように LCDや OLEDの画素密度向上は Apple Inc.はじめに同様のモバイル・デバイス事業者に成功をもたらした要因の一つであると言える。言い換えれば、このことが用紙をメディアとする様々な印刷物、コピーの存在価値を落としているものと考える。
近年のパソコン、モバイル・デバイスに用いられるディスプレーの色域は、オフセット印刷やカラートナーを使ったデジタル印刷を超えている。図 9.3 はコニカミノルタから 2018 年に発売されたデジタル印刷機 Accurio-Press C83hcでカバーしている色域を示す 3)。(図中の一部の説明は筆者が追記した)ハイクロマトナーと呼ぶ高彩度トナーを開発してC83hc機に適用され従来トナーよりも高色域をカバーしている。しかし未だディスプレーの色域には及ばず、紫、黄緑などの色域が狭いのである。
図 9.3 トナーとディスプレーの色域比較 3)
最近では人々が写真を共有する際に、人数ぶんプリントして手渡しすることは殆どなくなった。写真、動画などの共有は気楽にクラウド上のサーバーを経由して行われ、各自のモバイル・デバイスに適宜保存されて、ディスプレー上で楽しむようになった。このことは単にコスト、利便性だけでなく写真印画紙を超える高い解像度と共に豊かな色域再現が関与していると考える。一般消費者は明朝体文字などの細部再現も含めてデバイスの普段使いの際には表示性能や品位を特段意識はしていない。それでも相応の出費を厭わず手に入れた掌の中のデバイスが最高級であるとの満足感を持っているのだろう。
人々は高級なモバイル・デバイスの新規購入に¥100, 000も支払い、かつ月額¥5, 000程度の通信料もさほど気にしない。印刷会社が新鋭の印刷機を導入するには1億円程度の投資額が必要とされる。一方、モバイル・デバイスに関しては購入者の 1, 000 人分を合計すれば印刷機の投資額に見合う金額を自発的に出費してくれているのである。言い換えれば情報の送出元が今まで負担してきた設備投資は小さくなり、受信者としての消費者達がその投資分を肩代わりしている構図になっている。モバイル・デバイスには人々を惹きつける情報機能が満艦飾に盛り込まれているので、¥100, 000に見合う価値を感じているのである。
社会全般に DX(Digital Transformation)を浸透させるための前提としてモバイル・デバイスを各自持つことがが暗黙の了解になっているようだ。早晩、用紙へのコピー、プリントの要求は無くなってしまうのであろうか。
経験則から、衣服のポケットに入れて持ち歩き、片手で気軽に読むポケットブックの重さは 150 g以下であると言われる。普通に読まれている文庫本、新書判の重さが 150 g程度であるのもこれを支持している。
Apple Inc.から 2020 年に販売されたモバイル・デバイスの画面サイズと重量の関係を図 9.4 に示す。図中右上りの上側の線は 2016 年の製品の回帰直線であり、下側の線が2020 年のそれである。横軸の吹出しはカードから A4サイズ用紙までの対角寸法をインチ単位で表している。重量 150 g以下に制限すると、 2020 年では対角寸法 5.5インチ以下の表示面積になってしまう。スマートフォンなどは最先端半導体技術で作製された CPU(central processing unit)/GPU(graphics processing unit)を搭載している。その上でiOS4)、Android5)の洗練された組み込みプラットフォームの下、直感的で滑らかな操作性を提供している。例えばデバイスの狭い画面上で写真、図表などを閲覧する場合、2本指でピンチアウト(pinchout)、ピンチイン(pinch in)を繰り返す操作は、このごろ人々に当たり前に受け入れられている。
図 9.4 モバイル・デバイスの画面サイズと重量
最近若年層では、スマートフォンで全ての情報活動を完結させたいという要求があり、大きめの画面サイズが選ばれる傾向にある。しかし6インチを超えると 200 g以上になってしまうので現在はその辺が限界になっている。つまり官製葉書よりも、ふた回りも狭い画面を通して、彼らはあらゆる画像を閲覧、文字列を読みながら自らも発信しているのである。AppleInc.など次期スマートフォンの設計仕様決めは最も重要なテーマの一つである。顧客が、より好むサイズと重量の絶妙なバランスを取れなければ成立し得ない商品と言える。
仮に現状のデバイス構成技術で A4サイズの端末を想定すると、図 9.4 の右上端☆印に示すように 710 gになってしまう。これでは自由な姿勢での操作、いつでも持ち歩ける携帯性の面からは重すぎるし、落としたら壊れる心配もある。
モバイル・デバイスの部品構成で、2次電池、表示パネル、筐体、タッチパネル・カバーガラスなどのアナログ部品、素材の合計質量が全体の 90%を占めている。アナログ部品、素材の技術革新の速度は半導体チップのそれに比べて一般に遅いと想定されるので、図 9.4 に示した画面サイズと重量との関係が急速に革新され、今後の 10 年で様変わりするとは考えにくい。
このような理由で、A5サイズ或いは A4サイズ以上の紙プリントは、今後もさまざまな場面で使われ続けると考える。現行のモバイル・デバイスでは、軽く持ち歩ける A4サイズ程度のディスプレーを実装するのが難しい。ビジネスの場面では必要書類を素早く処理する必要がある。6インチ画面のピンチ操作などでは手間とストレスのかかる作業になり、しかも新奇なデジタル作法に従わねばならないわけで、相応の認
知負荷(cognitive load)を強いるものと想像される。幼児期からモバイル・デバイスを与えて、デバイス・リテラシー(literacy)を育成すれば良いという論調がある。教育心理学の側面などからの多面的研究に待たねばならないが、深刻な問題が隠れているかもしれない。
リーマン危機の後、企業、官庁をはじめ殆どの組織で複写・プリントを厳しく削減するキャンペーンが起こった。直近の目的はコスト削減であるが、電子文書化による業務効率向上、情報セキュリティー対策、そして環境負荷低減が中長期の目標になり現在に至っている。
近年の熱帯雨林の森林減少が大気中の CO2上昇要因の一つとされ、紙の消費もこれに関係していると指摘されている。日本製紙連合会によれば、用紙製造のためのパルプ材は製紙のために植林された人工林からの計画的調達であり伐採分を補植している。これに加えて消費者から回収率 60%程度でリサイクルされる古紙を用いている。したがって紙の消費が森林減少を引き起こすと言うのは少なくとも先進国では認識の誤りである。
最近、紙への複写・プリントの殆どは表示閲覧の目的なので使用後1週間以内に 90%が廃棄されると言われている。また複写機の製造から販売設置後5 年稼働での LCA(life-cycleassessment:環境影響評価)によると、CO2総排出量の 77%は用紙製造によるものであると東芝テック㈱の吉田稔は解説している 6)。
同社ではロイコ染料(leuco dye)を用いて加熱消色するトナーを開発した。電子写真乾式プロセスに、このトナーを適用すれば、使用済み複写・プリント用紙を加熱消色して再利用できる。使用済み用紙を再利用できる特徴を持つ「Loops」と名付けた複合機を 2013 年に発売した。さらに2017 年には、消色できない通常の白黒プリント機能を追加した複合機を出した。LoopsLP35 /45 /50は価格¥1, 140, 000から¥1, 550, 000で発売された。通常白黒モード、ブルー消色モードの使い分けができ、最大 A3サイズで速度は A4サイズで 35、45、50 cpmであり一般オフィス用として本格的な性能を持つものである。
図 9.5 の上下にはトナーの着色状態と消色状態を模式的に示している。トナー中の顔料は図中右のマイクロカプセルに封入され、ロイコ染料 A、顕色剤 B、変色温度調整剤 Cで構成される。加熱されると数 10ミリ秒で Bは Aから離れ Cと結合するように設計されていて消色する。通常の定着温度 150 ℃程度では消色してしまうので改良した。本技術の特徴は 100 ℃程度で定着するようにトナー粒子内部にワックス量を2倍多く添加し、定着時間を稼ぐためにニップ幅を広く設計した。さらに定着最終段階で高圧で押圧する機構にしたことである。マイクロカプセル封入顔料系については摩擦で消せる「フリクション」を商品化した技術を持つ、㈱パイロットコーポレーションとの共同開発である。なお「フリクション= FRIXION」は(株)パイロットコーポレーションの登録商標である。
図 9.5 Loopsトナーの着色と消色の状態 6)
通常は電子メールなどの短い文章チェックなどではプリントしない。しかし難解な数式や論文などを熟読し理解する場合はプリントして適宜書き込みしながら繰り返して読むことも多い。図 9.6 はカートリッジ型レーザープリンター(LP)、白黒、カラー複合機(MFP)、カラープロダクション印刷機(P.P.)の稼働による CO2排出量を示している。これらの製品のライフサイクル(LCA)でのA4用紙の1ページ文書を出力する場合の温暖化負荷を CO2(g/A4 page)排出量に換算したものである 7)。なおこの数値は用紙製造によるぶんは含まない。
図 9.6 複合機・プリンターの CO2排出比較 7)
柴田博仁は全8ページの電子文書を読む場合、紙とデバイスの環境負荷比較を明確に示した 8)。その際の複写・プリンターに用いられる A4用紙1枚の資源としての CO2排出量は5 gであるとした。吉田稔は同排出量を 7.6 gと見積もり、筆者は彼等とは別のデータから 4 gと見積もったが、以下の比較では柴田の 5 gのデータを用いた。また図 9.6 の LCAからのプリントによるCO2排出量は均等化し 1.25 g/A4 pageとした。8ページは両面プリントすると4×5+ 1.25× 8 = 30 g-CO2となる。一方ノート PC(パソコン)で8ページを 30 分間で読むと13.8 g-CO2、17インチディスプレーを備えた標準 PC構成では 35.3 g-CO2、 19インチディスプレーを備えた高性能 PC構成では 62.4 g-CO2となる。このように図9.7は紙と上記の3種の PCデバイスに対して読む時間に応じた CO2排出量を比較して示している。言うまでもないが、紙プリントの場合しばらくの間、机上に置いておけば再確認ができ、他者に渡したりもできる。その際に追加でCO2の排出が起こることはあり得ない。
図 9.7 文書を読む場合の CO2排出量の比較 8)
図 9.8 文書を読む場合の CO2排出量の比較 8)
1 時間の会議の場面で、参加人数分の紙プリント配布する場合とプロジェクターで文書を投影共有する場合を比較する。会議に5名参加で 10ページの文書を両面プリントして配布すれば用紙は 25枚、プリントは 50ページとなるので、25× 5+ 1.25× 50 = 188 g-CO2となる。図 9.8 に示すようにノート PCを1台プロジェクターに接続する場合は、191.4 g-CO2でありこれにほぼ等しい。よくある場面で参加者の多くがノート PCを持ち込んでプロジェクターに接続して会議を行う場合は紙の CO2排出を越えてしまう。プロジェクターの方がCO2排出量で少なくなるのは 16人以上の参加であると柴田らは試算している 8)。
このような結果を見れば、日常のオフィス業務で紙とデバイスを適宜使い分けていることに気付かされる。近年便利な表示デバイスを用いる場面が増えたが、我々は無意識のうちに状況を判断し、環境負荷に配慮した地球に優しい行動をとっているのである。
コロナ禍でリモートワークが増え、オンライン会議、同教室、クラウド技術を駆使した電子文書の共有などが急速に普及した。「情報通信技術の社会への浸透が、 Digital Transformationを引き起こし、人々の生活をあらゆる面でより良い方向に変化させる」。というストルターマン(Erik Stolterman)の 2004 年の提言が我が国ではよく引用される 9)。また後れ馳せながら日本政府もDX(Digital Transformation)を推進させるデジタル庁を発足させた。未来志向の DXは単に紙プリントを減らすのではなく、「生活をあらゆる面でより良い方向に変化させる」のが本来の目的であろう。
まもなく、洗練されたソフトウエアの上で、紙の文書も電子文書もシームレスに途切れることなく円滑に管理、処理、利用できるようになるだろう。そうすれば紙文書に対応する電子文書はいつでも、どこでも容易に引き出せる。紙上での閲覧と利活用が便利で必要だと思えば、それに応じて紙プリントされる。これからの時代にも使われ続ける次世代の複写機に向けた更なる再発明が期待される。
参考・引用文献
1) | https://en.wikipedia.org/wiki/Drupa(accessed2021.9.14)のデータを元に著者が図表化した。 |
2) | iPad, iPhoneは Apple Inc.の登録商標である。 |
3) | https://www.konicaminolta.com/jp-ja/newsroom/2018 /1023-01-01.html(accessed2021.9.23) |
4) | iOSは Apple Inc.が開発・提供する携帯機器用のオペレーティングシステムである。 |
5) | Androidは Google Inc.が開発・提供する携帯機器用のオペレーティングシステムである。 |
6) | 吉田稔"用紙リユースシステム「LOOPS」"日本画像学会誌, Vol. 54, No. 5, pp.441-444 (2015) |
7) | 一般社団法人サステナブル経営推進機構, http://www.ecoleaf-jemai.jp(accessed2021.10.8)にて開示された各社商品機種データを著者が適宜選択し編集・グラフ化した。 |
8) | 柴田博仁他"表示メディアとしての紙と電子メディア:環境の視点からの比較"富士ゼロックステクニカルレポート No. 20, pp.89-90 (2011) |
9) | Erik Stolterman and Anna Croon Forbs, " Information technology and the good life", ConferncePublication of the Information Systems Research, Manchester, U.K., Kluwer Academic Publishers,London, pp.687-692, (2004) |
複写機の技術系統化調査報告を完了するに至って、筆者の調査報告領域が偏っていたのではないかと心配している。おそらく執筆者の価値観、専門領域、経歴などによって報告内容は相当に違うものになったのだろう。はじめに述べた様に複写機の構成技術要素は物理、機械、化学をはじめソフトウエアーに至るまで多岐にわたる。そこで複写機技術を系統化する視点から、プロセス技術を基軸に置いた方が不特定の読み手には解りやすいのだろうと考えた。
全編にわたって記述した通り、複写機の画期的技術発明やアイデアは特別に問題意識の高い個人により生み出されたものが大半を占める。本調査報告書は技術開発に携わった人々にコンタクトして筆者の判断と責任で記述した。複写機の技術開発と技術革新について、個別の事例を著者の価値観に基づき具体的かつ系統的に記すことで人文的側面も含めて後世に伝えたいと考えた。
前年度から続く COVID-19パンデミックのなかで、訪問や面談により現場で生の情報を収集する機会も制限され、オンラインでの情報活動に依ることが増えた。学会の既刊号をはじめ関連企業から出版・公開されたテクニカル・レポート既刊号、社史、登録特許などは公式な情報としてありがたく引用した。しかしながら反面、このような技術情報公開が少ない企業の製品や技術の紹介が少なくなってしまったことは否めない。
筆者は複写機の研究開発に携わって既に半世紀を超えたが、自分の記憶を辿り記述したもの、日本画像学会、 IS& T(Society for Imaging Science andTechnology)の会員や知人から聞いたものなども報告には含まれる。そのような非公式な話については別のルートから得た情報で、一応内容を検証はしたつもりである。
画期的な技術発明や製品には当事者ではない周囲の関係者による、後付けの成功物語が創作される場合も少なくない。実際のインタビューなどによって得られた技術開発の進め方、アイデア、発明などが閃いた瞬間などは、さほど感動的ではないものも多く、偶然に生まれたものもあった。それでも筆者が技術開発の場面で重要な役割を果たしたと考える人達には実名を記している。文中に名前が記されていない多数の人々の技術開発への貢献があると考えるが、面識のない人達の名前を記すのは躊躇われた。したがって、かなりの偏りがあると思われる。
調査、執筆にあたって膨大な資料から複写機年表の編集作成を引き受けていただいた今井力氏に特に感謝します。
日本画像学会の複写機遺産申請資料などの開示を許可いただいた佐藤利文会長、並びに理事各位、複写機遺産委員会の服部好弘委員長に感謝します。さらに快く㈱リコー社史図版の利用を許可頂いた山下良則社長はじめ、膨大なリコー社史の中から鮮明なオリジナルの図版、写真などの検索と提供をいただいた日下妙子、美才治隆の両氏に感謝します。
最後に、貴重な情報提供いただいた学会、企業の関係各位を以下に記しこれに感謝します。
(敬称略)
複写機, プリンタ製品・技術年表
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複写機技術 産業技術史資料 所在確認
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