「いの町紙の博物館」 に対する検索結果 : 20

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簀(漉簀)

細い竹ひごや萱ひご(すすき)を、生糸を撚って作った丈夫な編糸で簾状に編んだもの。(写真は竹簀)年代:~1985

情報所有館 : いの町紙の博物館 


桁(漉桁)

桁には、水につけても狂いのない良質のひのきが使われます。大量の紙液を汲み込んで相当な重量となっても、水平を保つような工夫がされています。桁の金具は、柔軟性があり、桁を傷めず、錆びて紙に悪影響を与えない銅で作られています。年代:~1985

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簀桁

紙の種類に応じて、紙漉きの道具である簀桁を使い分けています。簀と桁で簀桁といいます。年代:~1985

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百万塔陀羅尼(ひゃくまんとうだらに)

奈良時代の女帝称徳天皇によって、天平宝字8年(764年)に百万個作られ、法隆寺や東大寺、興福寺など南都の寺院をはじめとする十大寺に奉納された。木製の三重の塔の中心部が空洞になっており、陀羅尼経1巻が収納されている。現存し、制作年代が明確なものとしては、世界最古の印刷物と言われている。年代:764年

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藩札

藩札は、江戸時代から明治時代初頭にかけて藩内での流通を目的に諸藩が発行した紙幣で、偽札が作られないよう、漉き方、染め、文様、文字刷りなど最高の技術で作られた。年代:1700~1800年代

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紙衣(かみこ)

東大寺二月堂お水取りに着用された紙衣。仙花紙という強い紙を棒に巻いて、何回も丁寧に絞り寒天を塗る。紙40枚を貼り合わせて反物にし、木綿の裏を付けて袷にする。(寄贈:東大寺清涼院住職 森本公誠師)

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土佐典具帖紙

「かげろうの羽」と呼ばれる土佐典具帖紙は、厚さ0.03mmの世界一薄い手漉きの楮紙。吉井源太は、明治維新後、美濃の典具帖紙を改良し、より薄くて強い紙として土佐典具帖紙を開発。明治13年、吉井源太の指導によりいの町神谷において勝賀瀬亀太郎が初めて、土佐典具帖紙を漉いたと言われている。明治14年、第二回国内勧業博覧会で一等賞を受賞。輸出の道が拓かれた。さらに、明治18年には、アメリカの博覧会でも受賞し、需要が急増。タイプライター用紙として大量に輸出された。(吉井源太本人の漉いた紙)年代:1880年~

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絹紗織機

薄くて地合の均一な紙を漉く場合、ひご、あみ糸、小ざるの跡が紙面に残らないよう簀を渋引きした絹紗で覆う。紗織は1回に50枚分、約100mの何千本もの縦糸を機械にかける。縦糸には時々のりをぬり、糸を固めながら横糸を織り込んでいく。くもの糸のように柔らかい絹糸で、一目の狂いもなく紗を織るには、細心の注意と根気が要求される。そのため、機織職人が大勢いた時代でも、絹紗を織ることのできる人は少なく貴重な存在であった。高度で複雑な紗織作業は、熟練者でも1日わずか5枚分(10m)しか織ることができない。漉く紙の種類によって編目が違い、細目、中目、粗目の三種類がある。

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吉井源太日記

吉井源太は、明治17年から39年までの日記を多数残している。日記には、紙の受注・納入記録、各地への訪問記録、各種博覧会への出品計画、紙や原料に関する実験記録や、紙の下書きなどが記されており、当時の紙漉きの状況がわかる歴史的にも非常に貴重な資料である。また、書画や俳句を嗜んでいた源太らしく、挿絵や句が登場するなど、人柄をうかがい知ることもできる。この遺品類は、いの町に寄贈され文化財として紙の博物館が収蔵している。年代:1884~1906

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簀あみ作りの道具

紙漉きの道具、簀桁に使う「簀」を編む道具。細い竹ひごや萱ひごを生糸で編む。対になった糸を、一定間隔で前後からひごにかけて編んでいく。糸は、しまり具合を均一にするため、等しい重さのつちのこ(小槌)に巻いてある。糸には、強靭な渋引の絹糸が使われる。ひごの太さに応じて編み糸の太さも変える。一枚の簀ができあがるには約10日を要する。(井上 昇氏の使用していたもの)

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