「倉紡記念館 (クラボウ)」 に対する検索結果 : 25

情報所有館 : 倉紡記念館 (クラボウ) 

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摂政宮行啓記念絵はがき

大正15年(1926年)5月に摂政宮殿下(のちの昭和天皇)が、当時最新の工場といわれた当社の万寿工場と、同工場内 にあった倉敷労働科学研究所(現 労働科学研究所)をご視察された記念に制作された絵はがき。 年代:1926


大原孫三郎社長の執務机

クラボウの2代目社長として就任した大原孫三郎の執務机。大原孫三郎はその優れた経営手腕で綿紡績以外に毛紡績、レーヨ ン事業、金融、電力などの分野に事業を拡大した。また孤児院院長の石井十次の影響を受け、数多くの社会的貢献に力を注いだ人物だ。大原美術館、倉紡中央病 院(現 倉敷中央病院)、倉敷労働科学研究所(現 労働科学研究所)などを開設し、現在も人々の文化面、社会面等で役立っている。


倉敷工場分散寄宿舎

従業員の寄宿生活を改善した分散寄宿舎の模型。明治40年(1907年)頃は休憩や睡眠は二の次とし、会社が従業員に過 酷な生活環境を強いる風潮があったが、当社は「従業員の健全な生活を確保し、勉学にも精をだせる環境を整えることも会社として行うべき崇高な使命である」 という考えのもと、第2代社長 大原孫三郎を中心に福利厚生等の改革を進めた。まずは従業員が雑居し、衛生上不備な点が多かった寄宿舎において、分散式家族的寄宿舎を建設。この施設は従 業員が安らげるように少人数用に部屋が区分けされ、また学校、裁縫室、診療所、販売所、花壇やレクレーション用の舞台も設備した。 年代:1907


倉紡中央病院

当社の従業員のために建てられた総合病院の写真。従業員のために各科診療のできる総合病院を大正12年(1923年)に 創設。その後一般の方の診療にも応じ、昭和2年(1927年)に倉敷中央病院と改名。現在は1,000を超えるベット数を持ち、先進的な医療を行う病院と して地域に貢献している。 年代:1923


労研式ガス分析器

倉敷労働科学研究所(現 労働科学研究所)が作業に対するエネルギー消費の大きさを測定するために考案した労研式ガス分 析器。倉敷労働科学研究所は工業化、産業化に伴って発生する労働問題について医学的、心理学的研究に基づいて改善するための施設で、工場内の温湿度と健康 確保、労働衛生、生産能率向上の問題に取り組んだり、労働者の所要カロリーを割り出し、給食炊事の献立も提案。 年代:1921


大正時代の紡績・織布工程

大正時代の紡績・織布工程写真。


芭蕉布

平良敏子先生より寄贈していただいた作品。平良敏子先生は、沖縄女子挺身隊の一人として、万寿航空機製作所に入所。その 時大原社長が、勤労の傍ら沖縄の伝統織物である芭蕉布の製織技能を習得する機会を設け、平良敏子先生は、その技能を沖縄帰郷後も磨き、人間国宝になられ た。


同心戮力

クラボウの社是で、社内の和と団結を第一とし、若手の力を十二分に発揮できる環境づくりを目指して初代社長が社是として 掲げた言葉。一人一人の働きや才能が異なっていても、目的を達成するために、皆が心を一つにして互いに力を合わせて協力していこう、という意味。儒家の始 祖であり、中国春秋時代の思想家、孔子の史書「春秋左氏伝」にある一節。


北条工場へ天皇陛下が御臨幸

日本の主力産業であった紡績業の工場を、天皇陛下がご視察になられた時に使用した机椅子。天皇陛下が四国御巡幸の途次、 昭和25年(1950年)に当時、国内でもっとも新しい代表的綿紡織工場であった倉敷紡績北条工場へ御臨幸になられた。 年代:1950


棟方志功作(書画)

大原總一郎社長が後援していた棟方志功先生が工場の礼法室の襖に描いた書画。戦時中、大原總一郎社長が従業員の精神の高 揚を失わないようにと、棟方志功先生に従業員の心のよりどころとなる作品を依頼。棟方志功先生は「玉琢かざれば器とならず、人学ばざれば道をしらず」の文 字を書き、それに稲妻とハマナスを配した作品を襖に描かれた。これは激しい戦争中でも、ハマナスのように強く生き、美しい花を咲かせられるように勉強を続 けようという意味。


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